自己評価で生きる

 インテグラル理論のケン・ウィルバーがフラットランドと呼ぶこの世界では、すべてのものの価値を、誰にでもわかりやすい「お金」に換算して捉えるのが普通になっている。例えば、目の前に1枚の絵画があったとして、その絵に自分がどれだけ心を動かされるかを感じて、今の自分にとっての価値を判断するのではなく、その絵の市場価格がいくらなのかを参照して、良し悪しを判断する。市場価格が高い絵はすばらしい絵で、安い絵はつまらないものと考える。それがフラットランド的な見方だ。そして、それはものだけでなく、人間にも適用される。社会的地位・資産・年収・学歴・仕事・容姿・スキル・資格・性別などによって、市場価値がつけられるわけだ。学校は、社会という市場に出た時に、高値がつく、つまり高い給料がもらえる学生を生産する工場と化している。他人を食い物にして荒稼ぎするサイコパスだっているわけで、お金をたくさん稼ぐ人間が、必ずしもすばらしい人物とは限らないのだが、市場価値が絶対化されたフラットランドの世界で、毎日毎日何年も過ごすうちに、すっかり市場価値=人間の価値という見方に染めあげられていってしまう。

 

 錯覚資産という言葉がある。錯覚資産は、実際の自分よりも、すばらしく見えるよう勘違いさせる力を与える何か。例えば、週末ちょこっとセミナーに参加して、「米国〇〇協会認定資格取得」というような肩書をゲットしておくことで、シロウトはころっとダマされる。本当のその人の在り様を見抜く力がない人が増え、錯覚資産をこしらえれば、市場価値の高い人間として生きて行ける世の中ができあがってしまった。自分のBeingを磨き上げていない人間は、他者のBeingを見抜く目もない。そのため、中身を充実させることにエネルギーと時間とお金を使うのではなく、ハリボテの良さそうに見える自分を作りこむことに心血を注ぐ人間が増えた。高い他者評価さえ得られればよくて、実際の中身はどうでもよいという風潮は、SNSなどに蔓延している。見た目は立派、中身は空っぽ。でも、中身のショボさがバレないよう、隙のない豪華なラッピングを施す。味よりも、見栄えが優先される世界。スーパーの安い惣菜を立派な料亭風の器に盛り付けて、パッと見は高級に見えるようにしている感じ。スーパーの惣菜をスーパーの惣菜として食べるなら、それなりに美味しいと感じるが、料亭のものと思って食べたのに、スーパーレベルの味だったら、本当に味のわかる人は眉をひそめるだろう。

 

 子どもにとって良い親と、世間向けに良い親を演じているだけの親はぜんぜん違う。良い親に見えることが目的の親は、他人様が見ていないところでは、良い親を演じない。本来、家族は職能集団ではないので、市場価値は持ち込まれるべきではないはずなのだが、市場価値でパートナーを選んで結婚したような場合、家族員同士が互いの市場価値を判断し、その価値に応じた対応をするのが当たり前になってしまう。子どもは小さい頃から、親の市場価値を高めることに貢献するよう躾けられる。子ども自身が一生懸命努力して達成したことを、親は自分が親としてすばらしい存在であることを証明するネタとして使う。もしも、子どもが何かしでかして、学校から親が呼び出され、責められるようなことがあれば、親は自分の価値を落とす子どもを許さない。マズローの欲求段階でいえば、承認欲求が満たされていない欠乏欲求の状態にある人は、無意識に自分の欲求を満たすことが最優先となる。「衣食足りて礼節を知る」という言葉があるが、満たされていない人間は、相手が誰であろうと自分の欲求を満たすための道具にしてしまう。そういう親が、子どもに無条件の愛を与えることなどできるはずもない。ただ、子どもから良い評価を得る事が絶対になり、子どもの奴隷と化す親もいる。評価者が世間様か、子どもかというだけで、他者評価が絶対化されていることに違いはない。

 

 市場価値の高い理想の人物像をベースラインに据えると、自分や他人を「マイナスがどれくらいあるか?」で見てしまう。そうではなくて、何ひとつ自力でできない赤ん坊状態を0としてベースラインに据えてみる。ゼロベースにすることで「プラスがこんなにある!」という見方に変わる。今の日本社会ではみんな、世間様がかくあるべきという理想の状態をベースラインに据えて、それに向かって、自分を変えて行くストーリーに巻き込まれている。自分らしい自分に向かうのではなく、誰かが良いと評価する自分、誰かにとって利用価値のある都合の良い自分に向かって走らされていることに気づいていない。

 

 テレビドラマ「相棒」の主人公の警部、右京さんは名推理を繰り広げるが、「僕とした事が」が口癖だ。自分の言動が、自分らしいかどうか、自分の美意識に照らして美しいかどうかを、いつも自分でチェックしている。自己評価で生きている人とはそういうものだ。だから、他者からいくら非難されても、自分が良いと思うことを貫いて揺らがない。他者評価で生きている人は、人によってそれぞれ違う価値観に合わせようとするので、相手によって場当たり的に言動を変え、一貫性がない。自分独自の哲学がないので、表面的で薄っぺらい人間だが、同質の人たちとつるんでお互いに褒め合いっこをしていれば楽しく暮らせる。SNSなどで「いいね」のやりとりをすることで安心する。そうして、他者評価にゆらゆらゆらぎながら、クラゲのように世間を漂って生きているうちに、40代、50代になる。その頃には、自己評価で自分をビルドアップし続けた人たちとの差が、取り返しがつかないくらい大きくなっている。

 

 自己評価で生きる場合、ナルシシズムを肥大化させないため、自分勝手になりすぎないため、他者からのフィードバックは必須となる。フィードバックを参考にすることと、他者評価に頼って生きることは違う。フィードバックをもらうのは、ジョハリの窓でいうところの盲点の窓や未知の窓を解放するため、自分をより良く充実させていくためのヒントを得るためだ。大御所女優のIさんがエクレアを食べ、かなり経ってからトイレの鏡で見たら、口の周りにチョコレートが泥棒のようについていたことがあったそうだ。「どうして誰も教えてくれないのよ?!」と思ったそうだ。自分の社会的地位が上がるほど、フィードバックはもらいにくくなる。セルフチェックには限界があるから、そこのところは十分気をつけたい。

Shima * Life * 19:50 * - * - * pookmark

男性性と女性性

 インテグラル理論のILP=Integral Life Practiceでは、ポラリティ(極性)の統合が重要なポイントとされる。陰と陽、動と静、自然と人工、自力と他力、緊張と弛緩、外向と内向、男性と女性などなど、様々な対極にあるものについて、場面に応じて臨機応変にどちらの極にも大きく振ることができることが、バランスが良い状態(=ポラリティの統合)とされる。両極のちょうど真ん中で止まっているのは「真ん中に偏っている」というそうだ。「〇〇でなければならない」「〇〇してはいけない」など、社会的役割等により、我々はたくさんのタブーに制限されながら生きているが、それが極性の振り子を振らせないストッパーになっていることが多い。しかも、それが当たり前になってしまっていて、自分の言動を制限しているストッパーに気づけないことが多い。ILP実践は、何となくやってるではなく、明確な意図を持って取り組む必要があるが、日々の生活の場面場面で、自分の今のバランスを1歩引いて考えてみたり、バランスが取れている人から、客観的フィードバックをもらうと良いだろう。

 

 原始時代、ヒトが群れを作って集団生活を行うようになると、男は狩りに出かけて獲物を得ること、女は集落で生活全般を担い、育児に励むという役割分担が生まれた。男性は外の世界の脅威と戦うこと、女性は群れの中で安定した営みを維持し生活を守ることが中心テーマに据えられるようになった。男性は狩りにおいて効率よく獲物を捕まえるための戦略を練り、恐怖など、自身の感情を統制して、理性で行動することを良しとした。そのため、男性性は頭、理性とのつながりが深い。女性は愛情深く子どもを育て、集落の人たちの気持ちを汲み取り、仲良く暮らしていくことを大事にした。そのため、女性性はハート、感情とのつながりが深い。


 数千年の時が流れ、小規模なコミュニティはどんどん大きくなり、社会システムも複雑化していった。狩猟に頼る生活は終わり、農耕や牧畜などで計画的に食料を生産し、生活を豊か快適に楽にするさまざまなものを作り出す分業が図られるようになった。物々交換ではなく、貨幣による交換を原則とする社会に変わり、サービスを提供することも仕事となった。日本では、戦後、経済的に豊かな時代になると、専業主婦という職業があらわれた。核家族化が進み、男は会社で仕事、女は家で家事育児という役割分担ができあがった。子どもが朝起きると、お父さんは既に会社に行った後で、子どもが夜寝てから、お父さんは帰宅する。子育てに男性が関わらなくなることで、女性性の強い子どもが増えていった。

 

 そんな子ども達も、大人になって会社に入ると、いきなり男性性をばりばり発揮しなければならない状況に追い込まれる。リーダーシップについてPM理論というのがあって、PはPerformance(目標達成能力)、MはMaintenance(集団維持能力)で、組織で良い仕事をするにはPもMも両方大事だ。男性性はP、女性性はMとつながっている。男性性の欠如した環境で育つと、自分の中の男性性を涵養することができないため、目標達成のために戦う力がない。いさかいが起こりそうな気配があったり、チャレンジが必要な場面になると、偉い人に頼るか、誰かに丸投げするかして、そーっと逃げてしまう。生物学的な性別がどうであれ、個人内では男性性・女性性両方のバランスが必要となる。

 

 戦いを避けていたら、いわゆる勝ち組にはなれない。会社の人事評価では、パフォーマンスが重視されるから、男性性が足りないことは、結果的に収入の低さにつながる。日本全体の経済の悪化もあり、若い世代は、結婚後も共働きが当たり前になった。そうして、両親ともに仕事に疲れ果て、家庭で子育てにたずさわる余裕がない状況が出来上がっていった。平成28年の総務庁の統計によれば、6歳未満の子どもがいる世帯で、夫が育児に使う時間は週45分、妻は3時間45分となっている。1日あたりに換算すると、夫7分、妻32分しかない。

 

 複雑化した社会では、本能だけでは生きられない。社会において適切な役割を担う社会性を身に着けるためには、学習が必要となる。「ケーキの切れない非行少年たち」という本で、児童精神科医で臨床心理士の宮口幸治先生は、子どもの支援には大きく分けて、学習面、身体面(運動面)、社会面(対人関係)の3つが必要であるが、日本の学校には社会面の支援が足りないことを指摘しておられる。日本に学校というものが作られた頃は、大家族で暮らすのが当たり前で、兄弟も多く、親戚づきあいや近所づきあいの中で、友達とじゃれあいながら、学校外で自然に社会性を身に着けて行くことができた。だから、わざわざ学校のカリキュラムに組み込む必要性がなかったのだろう。ところが、今は核家族化が進み、近所づきあいも少なくなり、友人たちとの遊びもゲームや携帯電話を介したものが増え、人と直接コミュニケーションする機会が激減した。数年前、「同じマンション内にいる親子が、Lineで会話する」という話をきいて驚いたが、高校生以上の子どもがいる親にきいてみると、そんなのは普通なのだそうだ。

 

 十数年前から、サイレントベビーが増えている。サイレントベビーとは、泣いて訴えても、誰からもケアを与えられないと学習してしまったために、泣かなくなったおとなしい赤ちゃんのことをいう。「待機児童ゼロ」が自治体の目標として掲げられるようになり、子どもは生まれて数か月で保育園や幼稚園に預けられるのが普通になった。しかし、心理学の愛着理論的には、2歳くらいまで母子が心身ともに密着した時期を過ごすことが望ましい。保護者から無条件に愛され、受容され、自分が世界から祝福される存在であることを十全に体験することが大事だ。それによって、愛着と呼ばれる保護者との情緒的な結びつきができる。乳幼児期にできあがった愛着スタイルは、その後、他者と関わる際の態度のベースとなり影響を与え続ける。安定した愛着が形成されないと、保護者を安全基地として探索行動を行い、基本的信頼(自分への信頼と、他者や世界への信頼)を確立することもできない。そうすると、大きくなってから、他者とのコミュニケーションがうまくいかず、社会に適応して生きて行くことが難しくなる。愛着や基本的信頼は、対人関係の土台で、ここができていないと、そもそも人との関わりがうまくいかない。男性性と女性性のバランスどころではない。ちなみに、最近の内閣府の統計では、若年のひきこもりが約54万人、中高年のひきこもりが約61万人となっている。

 

 学校は、子どもに人としてのDoingを教えるが、家庭は、子どもに人としてのBeingを教えられなくなっている。日本は土台から崩壊しはじめているように感じるのだが、大丈夫だろうか?

Shima * Life * 16:03 * - * - * pookmark

内なる自然

 人間は、小さな地球。血液という海が満ち引きを繰り返し、内なる自然が生命を維持させている。

 

 学校に入ると、子どもは自分の内なる自然に逆らい、我慢することを教えられる。お腹が空いても、給食までは我慢。トイレに行きたくなっても、チャイムが鳴るまで我慢。眠たくても、我慢。疲れても我慢。我慢は、子どもから自由を奪い、自然に自分らしく育つことを阻む。そのうちに「我慢するのが偉い、我慢するのがオトナ」と思い込んでしまい、大人になって仕事をするようになると、「我慢するからお金がもらえる。がんばって耐えるから、お金になる」と思うようになる。そのうちに「我慢のいらない楽な仕事でたくさんお金をもらうのは悪だ」などと言い出す。

 

 そんなこんなで、自分の中の自然を抑えつけるほど偉いという思い込みができてしまっている人も多いのだが、内なる自然が失われ過ぎると、病気になったり、問題を生じたりして、生命を維持できなくなる。それは地球でも、個人でも同じ。自然を人為・人工が浸食しすぎると、バランスをくずす。今、いろいろなところでSDGs(Sustainable Development Goals:持続可能な開発目標)が叫ばれているけれども、個人内にもSDGs(持続可能な発達目標)が必要だ。内なる自然を守りながら、社会との循環を確保し、日々を健やかに暮らしていく指針を設定しないと、自分らしく育って行けず、生命活動を維持できず、生涯に渡って続く成長・発達が阻害される。

 

 小さい頃からがっつりスポーツをやっていた人は特に注意が必要だ。そのスポーツで良い成績を上げられるように姿勢や身体の使い方を矯正されて、それがデフォルトになってしまっている場合が多い。スポーツをやめて、一般人になったところで、一度完全にリセットして「身体の自然な在り方」に書き換えをした方が良さそうだ。元スポーツマンのクライエントに対し、身体面と心理面、両方からアプローチして、リセットするプログラムを作らなければと考えている。

 

 最近、虐待やDV事件が世間をにぎわせている。他者に対する虐待やDVは社会問題としてクローズアップされるが、自分に対する虐待やDVは「自己責任」という言葉の下に放置される。自分を粗末に扱い、十分なケアを与えない人が、他者に対してそれを適切に与えられるはずもない。自分に対する態度が、外に反映するから、社会問題が出てくるのだ。まずは、自分に対する虐待やDVをやめるところから始めないといけない。例えば、身体が必要としている栄養を与えないだとか、休ませないで身体を酷使させるとか、十分な睡眠をとらせないとか、他者に対してやったら確実にアウトなことを、自分に対してやっている人は多い。セルフ虐待・セルフDVは、内なる自然をないがしろにする行為そのものだ。

 

 いま「パワーか、フォースか」という本を読んでいる。それによるとキネシオロジー(筋肉反射)によって、あらゆる問いへの答えを得ることができるという。つまり、身体の叡智にコンタクトできれば、すべての真理にアクセスする扉が開かれるということだ。インテグラル理論のケン・ウィルバーは、心身一如の状態を「ケンタウロス」に例えたが、それにはまず、自分の中の自然を大切にすること、自分の中の自然を守ることから始めないといけないだろう。

Shima * Life * 08:40 * - * - * pookmark

盲点

 いま、通信制の大学の科目履修でコーチングやモチベーション論、産業組織心理学などを学んでいる。大学などで提供されるアカデミックなカリキュラムは、ある領域に関してまんべんなく全体を網羅しているため、自力で勉強した場合に比べ、盲点ができにくい。自分だったら絶対に手に取らないような本が教科書に指定されていて、ウンウン言いながら読み込まなければならないハメになるが、そういうイヤイヤ学んだ知見が、後になって現場で役立つことが多い。自分が良いと思うもの、興味のあるものばかりを学んでいると、どうしても偏って盲点ができる。しかし、領域全体を見渡したことがなければ、自分が偏っていることにも気づけない。

 

 ひとりで自力の実践をずっと続けていると、必ず盲点ができる。修行好きで、何でも自力でやりたい実践家タイプの人は、特に注意が必要だ。成長・発達とは、ワンネスに向かって、自分の生き方に制限を課すものを手放したり、克服したりして、どんどん自由を増やしていくプロセスとも言える。そうして活動範囲は拡大していくが、盲点の部分は欠けたまま取り残される。「井の中の蛙、大海を知らず」状態になっていても、外の人と交わらなければそのことに気づけない。自分に親しみのある領域ばかりを探究してやり切ったと思い込んでいても、ワンネスという巨大なパズルの全体を見渡したとき、実はごく一部分しか埋まっていないということになる。

 

 さらに、盲点の中にはシャドウも含まれる。シャドウは過去の発達段階での取り残しや、幼少期の出来事に起因する場合が多いが、意識の影に埋め込まれているため、ひとりでどんなにがんばっても気づけない。シャドウを放っておくと、エネルギーをどんどん取られて使われたり、気づかないうちに道をそれたりする。ある段階まではシャドウをモチベーションとして使うのもありだが、オレンジ段階後半あたりまで来たら、そろそろ手放す努力を始めた方が良い。自分が気付いていない部分や足りない部分を、他人に指摘されるのは心理的苦痛だから、避けたくなるのは当然だが、確かな目を持つ人からフィードバックをもらって地道に取り組まないと、いつまで経っても解消されていかない。

 

 心理学者のデイビット・ベイカンによると、人間存在には、エージェンシーとコミュニオンの二重性があるそうだ。エージェンシーは神のエージェントとして主体的に世界に働きかけ、創作活動をすること。コミュニオンは他者との交わりの他、霊的交流も含まれる。キリスト教では「神は人を通して語りかける」というそうだが、エージェンシーは自分の内なる神=真我に導かれる活動、コミュニオンは、他者を通じて届けられる神のメッセージに耳を傾け、協働することを指すのだろう。神のメッセージとはとても思えない欲にまみれた声も多いが、それもまた世界を形作る大いなるものから垂れ落ちたひとしずくなのだ。他人の人生を食いものにしようとする輩もいるし、そういう人たちと必ずしも関わる必要はないが、「そんな視点から見る世界もあるのだなぁ」と受け止めることで、世界が拡がり、自分目線では見つけられないパズルのひとかけらが手に入るかもしれない。ワンネスという巨大なアートを完成させる人生のパズルゲームには、必ず他者とやりとりしなければ手に入らないピースがあるものだ。

Shima * 意識 * 15:00 * - * - * pookmark

脳神経細胞ネットワークの発達

 意識の発達を、脳の神経細胞のネットワークの構築という視点で捉えることも大事なんじゃないかと思う。どれぐらい広範囲に脳の各部位を連動させて活性化できるか。より短時間で情報処理ができるか。各段階の差は、そこのところが表に顕れたものともいえるだろう。

 

 

 脳の中で新しい神経細胞のネットワークをじわじわ構築し、何年もかかってやっと縦方向の発達段階が上がる。前の発達段階を「含んで超える」というのは、既存の神経回路から、さらに先へと伝達する神経回路を伸ばしていくことになるからだ。段階をスキップできないのは、そう考えると当たり前のことだ。講座やセラピー、コーチングなどを受けたり、本を読んで勉強して、知識やマニュアルを仕入れたり、すばらしい体験をしても、すぐには発達段階を上げることにつながらないのは、脳への刺激が長期間に渡って反復的に繰り返されないと、脳の中で十分な神経回路の構築がなされないから。

 

 脳神経細胞間に新しいネットワークを構築するには、毎日毎日刺激を与え続けないといけないし、刺激が与えられない期間が長くなれば、刈込みが行われて、つながりは失われてしまう。老化による回路の断絶も起こる。だからILP実践(インテグラル・ライフ・プラクティス)はたまにやればいいのではなく、毎日続けなければ意味がないのだ。十分な睡眠と、脳が快適に働くために必要な栄養を供給すること。脳へ無駄なストレスがかからぬよう環境を整えること。脳に毎日十分な刺激を与え、新しい神経回路を構築すること。ボディ、マインド、スピリット、シャドウ、全領域への働きかけを繰り返すことによって、脳の全領域に刺激が与えられ、活性化が促される。

Shima * 意識 * 08:07 * - * - * pookmark

考える人

 発達段階によって「考える」というときにやってることが実はぜんぜん違う。

各段階で使えるようになる思考方法をまとめてメモしておこう。

 

 レッド段階:本能で反応

 ブルー段階:マニュアル・ルール・一般常識などで判断

 オレンジ段階:論理的思考(言語による)

 グリーン段階:イメージ思考

 ティール段階:直感思考

 

※ イメージ思考は3D映像(音付)で考えるから、情報量が膨大。人に説明するとき、言葉に落とし込むのが大変。

 

※ 直感思考は、先に答えがポンときて、そこから逆になぜそうなるかを論理で肉付けしていく感じ。

 

 あるいは逆で、そういう思考が可能な脳を持っている人だから、その段階まで到達できるのかも・・・卵が先か、鶏が先か。

Shima * 発達・成長 * 09:30 * - * - * pookmark

日々の実践

 1か月=31日=744時間=44640分。月に1回50分セッションを受けた場合、50÷44640×100=0.112%。80分セッションなら、0.179%。50分セッションを月2回受けたとしても、0.22%。0.1〜0.2%というのは、ほとんど誤差範囲でしかない。このごく短時間のセッションだけではどうしようもない。ご本人がそれ以外の時間をどう過ごすかが重要となる。

 

 自分のことを愛せない人がいる。自分を大切に思っていないから、自分を粗末に扱う。他者から愛してもらうため、毎日へとへとになるまで、人や社会のために尽くす。身体を酷使して、動けなくなるまで、倒れるまで働く。そういう人が身体の不調を訴えて、セッションを受けに来られるが、はっきり言って焼け石に水だ。もし、セッションの効果が出て、身体の状態が良くなったとしても、良くなったら良くなった分だけ酷使する。そしてまた、具合が悪くなる。堂々巡り。

 

 具合が悪くなることで、それ以上がんばらずに済んで、人からやさしくしてもらえて、愛を得られるというパターンが無意識に定着している場合もある。どうしてもやりたくないことについて、言葉で「No」と言えないので、「具合が悪いからできません」と断れるように、いつでもエクスキューズに使うための身体症状をキープしている人も居る。

 

 初回のセッションに来られるとき、ほとんどの人は、状態が落ちている。その方の総合的な能力の上限が100だとすると、60とか、70とかしか発揮できない状態になっていたりする。そこで、まずは100が出せる状態まで回復させることを目指す。初回で何とか90くらいまで回復させて終わったとして、その後、自分では何もせずに放ったらかしの人は、次に来た時、また60とか70とかに落ちている。ところが、家に帰ってから毎日自分でできることをやる人は、次に来た時、90前後をキープしていて、セッションをすると、当初の目標の100を達成できたりする。それで、さらに次のセッションでは、上限をアップして、110とか、120とか、じわじわ上げていったりする。

 

 自分の身体のメンテナンスは基本的に自分の責任。本当に自力ではどうしようもない状態に落ち込んだとき、その時限りで誰かに助けを求めるのは致し方ないとしても、いつもいつも自分のメンテナンスを誰かにしてもらわなければ生きていけないようでは、自律できているオトナと言えない。

 

 Heaven helps those who help themselves.(天は自ら助けるものを助ける)という言葉があるが、救済ばかり求めて、自分では何もしない人を天は助けない。我々は魂を成長させるため、この濁世に生まれ落ちた。助けてもらってばかりいたら、何も考えず、学ばず、気づかず、成長しないではないか。宿題を誰かにやってもらってばかりいたら、いつまで経ってもぜんぜんできるようにならないだろう。自分で課題に取り組んで解決しなければ、身にならない。「人事を尽くして天命を待つ」つまり、自分にできることを全部やってから、最善を天に祈るというのが正しい在り方だ。

 

 ケン・ウィルバーのインテグラル理論に、ILP(Integral Life Practice)という実践法がある。Body・Mind・Spirit・Shadow、グロスボディ・サトルボディ・コーザルボディ、どれかに偏りすぎることなく、まんべんなく取り組む実践を日々続けましょうというもの。ILPを実践してますと言っても、自分ひとりでやっていると間違いなく偏るので、ときどき誰かにバランスをチェックしてもらう必要がある。セラピストの仕事はメンテナンス係ではなく、本当はそこのところだと思うんだよね。

Shima * Life * 10:49 * - * - * pookmark

ケンタウロス

 先月、師匠と美術展に行く機会があった。観終わって、ランチをしていた時「音声ガイドをききながら絵の前に立ってる人が邪魔」という話をしたら、師匠が「それって、実際たまにいるんですけど、コンサートに来て、演奏ききながら解説本読んでるみたいなものですよね」と言っていた。絵でも、音楽でも同じだが、大事なのは、自分自身がその芸術と直に向き合い、味わって、ハートがどう感じるかというところ。一般的な価値がどんなに高くても、自分のハートにまったく響かず、何も心が動かないのであれば、それは自分にとってガラクタに過ぎない。

 

 自分のハートで感じる真・善・美の感覚、揺らがない自分軸がしっかりしていないと、アタマで価値判断をするようになる。経済的な価値や、目先の損得、快・不快で物事の良し悪しを判定してしまう。自分の中に絶対的な感覚がないため、フラットランドの価値観を容易に受け入れてしまい、植え付けられた物質界的文脈から逃れられなくされてしまう。一種の洗脳だね。

 

 真・善・美の感覚を取り戻すには、インテグラル理論のケン・ウィルバーがいうところのケンタウロス状態(意識と身体が一体化した状態)になることが必須で、過去に切り離してしまった自分の身体のパーツをひとつひとつ統合していかなければならない。

 

 いまの社会に適応して暮らしていくには、感覚を鈍くしておく方が楽だ。眠いとか、疲れたとか、痛いとか、暑いとか、寒いとか、お腹がすいたとか、自分の活動の邪魔になる感覚を鈍くしたり、シャットダウンしておく方が都合が良い。子どもの頃から、いろいろな我慢を強いられているうちに、自分の身体から何らかの要望が出ても、我がままとして、無視するようになる。倒れる寸前まで体を酷使するのが当たり前になり、それが偉いと称賛されたりもする。そうやって、自分の身体の部分部分がどんどん意識から切り離され、意識による身体の奴隷化が侵攻する。自分の身体へのネグレクトが続くうちに、身体と意識が乖離して、そのうちに、その乖離があることさえわからなくなる。

 

 自分の感覚を取り戻した瞬間、フタをして閉じ込めていた感覚がぶわっと吹き出し、押し寄せてくるため、けっこう辛くなってしまったりする。それはパンドラの箱のようなもので、中にすばらしい宝物も入っている。箱の底から見つけた「世界のすべてに対する感謝」があふれ出したという人がいた。この世界を自分の腕で本当に抱きしめて生きるには、感覚を拓いて、世界に自分を開いていくことが必要なのだ。

Shima * 身体 * 08:55 * - * - * pookmark

グリーン風味のブルー(アンバー)

 ゆとり教育の頃、劣等感を抱かせないため、順位をつけない取組みが行われたことがあった。例えば運動会の徒競走で「みんなで手をつないで一緒にゴール」というようなもの。学校側には、いじめ抑止の思惑もあったのだろうが、当時の子どもたちは、人と戦わない、対立しないことを徹底的に仕込まれたらしい。

 

 同じ時期、ゲーム機が普及して、子ども同士が生身の身体を使って触れあい、コミュニケーションを取り合って遊ぶことが減っていった。ゲーム機を介して、友達と遊ぶのが当たり前になって、子ども達の遊びからも、ぶつかり合う要素が消えていった。少子化でひとりっ子が増え、兄弟げんかもなくなった。さまざまな時代の変化が、自分と意見の違う人間と会った時、どうやって相手と交渉し、折り合いをつけていくかというコミュニケーション力を養う機会を、どんどん失くす方向へと動いた。そうやって育った世代が、いま会社の若手となっているが「他者と対立しそうな感触を得たら、すぐに身を引く」というのが正しいオトナの対応と思っているのが、割と普通なのだという。

 

 ゆとり世代の親は、団塊の世代〜バブル世代で、ヒエラルキーの中で勝ちあがることを良しとする権力欲をモチベーションにして生きてきた。そのため、戦わないゆとり世代をみると、どうも覇気が足りないと感じてしまうらしい。当のゆとり世代は、ギラギラした親世代への反発があり「あんな風にはなりなくない」思っているし、他者と戦ってまで主張するほどの自分が育っていない。

 

 オレンジ段階は、自分自身のBeingに焦点を当て、揺らがない自分軸を確立し、それを社会の中に発信していく段階。そのため、自分を主張しようとしないゆとり段階は、なかなかオレンジ段階に進めず、ブルー段階に留まってしまう。とはいえ、支配的な親世代への反発から、ありのままの自分を大切にしたいという気持ちが強く、多様性を良しとするため、コンテンツ的にはグリーン段階風に見えるという現象が起こっている。グリーン風味のブルー。

 

 アラサーゆとり世代が、いまブルーとオレンジの帰路に立たされている。そろそろ部下の指導を任される時期に来ているが、部下に説明・指示するには、物事を構造化して論理的に話をするスキルが必要だ。視野を広くとり、ロングスパンで数か月先、1年先、10年先まで見通した上で、様々な要素を盛り込んで考え、責任を持って決断を下すことができなければならない。そのあたりは、オレンジ段階で完成されるもので、マニュアルや上司の指示に従うだけで、自分の頭で考えない依存的なブルー段階にいる限り、達成できない。自立して揺らがないオレンジ段階に進むことが絶対的に必要となる。

 

 成長・発達に必要な3つの要素は、Challenge(越えなければならない危機)、will(変わりたいという強い意志)、support(発達を後押しする支援者・環境)だが、会社から与えられるChallengeは、成長を促す絶好の機会となる。そうでなくても、季節がめぐり、春になれば桜の花が咲くように、本人にその気がなくても、ブループリントに従ってある日いきなりぽかっと発達段階が上がってしまうなどということもあり得る。

 

 ブルーからオレンジ段階への移行期、古い在り方や価値観が崩れ去り、不安定になるため、支え導いてくれる適切なsupportが必要となる。うまく乗り切れずに、うつや引きこもりになってしまう人も多い。ゆとりブルーがオレンジに進む時には、彼らが反感を抱くオレンジ段階の支援者よりも、親和性の高いグリーン段階の支援者の方が向いているかもしれない。問題は、グリーン段階の支援者の絶対数が少なすぎて、探すのが難しいことだ。しかし、その世代の人がオレンジ段階に進むと、団塊世代やバブル世代のオレンジとは違った、さわやかでさっぱりした瑞々しいオレンジになるようだ。がめつさがなく、成り上がり勝ち上がりたい欲もなく、ギラギラしていない。そういう人たちを見て、私はこれまで汚いオレンジを見過ぎて、本当のオレンジ段階の美しさ、すばらしさを知らなかったのだなぁと気づかされた。ゆとりオレンジが世界を美しくしてくれる未来を期待しよう。

Shima * 発達・成長 * 09:38 * - * - * pookmark

告知

インテグラル理論関連の本や、セミナーのご案内

(嶋原は昨年インテグラル・ジャパンのメンバーになりました。)

 

※ インテグラル理論をこれから学びたい方にお勧めの本「インテグラル理論」

 (「万物の理論」の新訳版)

  2019/6/15発売 日本能率協会マネジメントセンター 3,024円

http://integraljapan.net/info/2019_book.htm

 

※ 鈴木規夫師匠による「インテグラル・トランスパーソナル理論講座」 

  全4回 Zoomオンライン受講可能。

  2019/7/17(水)、8/21(水)、9/18(水)、10/30(水) 19:15〜21:15

http://holistichealthinfo.web.fc2.com/201907_integral.pdf

 

※ インテグラル理論を教育関係に生かしたい方に、後藤友洋さんの講座。

  第1回 2019/7/27(土) 18:30〜21:00、

  第2〜4回は8月・9月・10月に曜日・時間帯は同じで開催予定

https://www.holisticspace-aquarius.com/2019/05/27/20190727integral/

Shima * イベント * 16:29 * - * - * pookmark
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