ホリスティックなセラピスト

 私はホリスティックなセラピストというのは「たし算」ではなく、「かけ算」だと考えている。Body・Mind・Spirit(+Shadow)、それぞれについて1人前のプロとしてサポートを提供できるだけの知識と技術と経験と人間性を備えている必要がある。例えばBody0.9、Mind1.1、Spirit0.8だったら、かけ算すると0.792で、ホリスティックなセラピストとしては1人前(1.0)ではないということになる。

 

 大抵の人は足し算してしまうが、ホリスティックなセラピストを標榜するということは、セッションでクライアントがどの領域に踏み込んでもしっかりサポートしますよと保証することなのだ。Body・Mind・Spirit、各領域のワークを連動させ、循環させながら深めていく中で、それぞれバラバラに部分部分でワークしていたのでは見えてこないものがたちあらわれてくる。ワークが特定の領域に踏み込んだ途端、セラピストの対応がアマチュアレベルに失速してしまうようではセラピーがつながっていかない。それだったら、セラピストが確実に対応できる領域に限定して、専門のセラピストとしてやっていく方がいい。

 

 セラピストとクライアントがBody to Body(グロスボディレベル)、Mind to Mind(サトルボディレベル)、Spirit to Spirit(コーザルボディレベル)で己の存在を響かせあうからこそ出てくる反応がある。アタマで学んだだけの知識で通用するのは表層の部分だけだ。

Shima * セラピスト * 09:24 * - * - * pookmark

チャレンジとサポート

「悩みを解決するにはチャレンジとサポートが大事だ」と師匠が言っていたが、臨床現場で仕事をしているとクライアントにどのくらいチャレンジする気があるかによって、セッションの内容が深くも浅くもなるのを感じる。クライアントの許容するチャレンジ以上のものを強要したら拷問になってしまうから、セラピスト側はクライアントのチャレンジのレベルに応じたサポートしか提供できない。そのため、同じ50分9720円でもクライアントのチャレンジ度合いに応じて、密度の濃いセッションになることもあれば、のれんに腕押しでさっぱり手ごたえのないセッションになることもある。

 

 人は困らないと成長しない。悩み、問題、身体症状などは、解決を通して人を成長させる。しかし、そのためには問題を生んでいる古い信念を書き換えたり、古い自分を死なせて生まれ変わることさえいとわないようなチャレンジが必要となる。例えていうなら、使い慣れているけれども、古くて使いづらくなったパソコンをポイして、最新のパソコンに移行するときの悩ましさに似ているかもしれない。移行を考えたとき「最新のパソコンなんて使いこなせっこない」「自分には難しすぎる」と腰がひけてしまうが、サポートしてくれる人がいて手伝ってもらえるならば、抵抗なくスムーズに移行することができるだろう。そして移行が済めば、これまでのパソコンではできなかったことができるようになり、世界が拡がる。楽しみが増える。

 

 自分ひとりでできるラインと、誰かのサポートを得ればできるようになるラインとの差は、年齢が進めば進むほど大きくなっていくという。若いころ手伝ってもらってもうまくできなかった事が、今の自分なら適切なサポートによってできるようになっている可能性がある。「大人だから誰の力も借りず何でもひとりでやる」という頑なな姿勢でいると、必要なサポートを利用する人よりも、できないことがだんだん増えていってしまうことになる。

Shima * セラピスト * 15:46 * - * - * pookmark

マニュアル

 あるテレビ番組でファミレスの舞台裏が紹介されていた。まず、凄腕の料理人がテーマに合った料理をいくつか提案する。すると3〜4人のマニュアル係が「バイトに入って1週間の高校生」でも作れるよう料理マニュアルを作成する。スキル・経験・知識がなくても、誰にでも同じものを短期間で再現可能にするマニュアル。感心するとともに、これと同じことがアカデミックの世界でも行われていると感じて恐ろしくなった。

 

 先日、ある身体系の療法を教える学校が主催するセミナーに参加した。その療法ではボディ・マインド・スピリットの実践を大事にするとのことだったが、アカデミックな学校で教えるとなると科学的実証性のないことを公言するわけにいかない。そういうわけでスピリットについてはほとんど教えられないというのだ。一番大事な核でありながら教科書には書かれず、教えられない。その療法の「スピリット」が伝えられなければ、何を指針に施術を行えばいいのかわからないではないか。そうなるといちいちマニュアルに照らして、こういうときはこう、こういうときはこうと判断するしかないから、頭に詰め込まなければならない知識の量は膨大になる。

 

 ほとんどの心理療法は技法として確立され、学校やセミナーで教えられるようになると同じようなことになる。その療法の大家が直接教えているうちはまだいい。言葉で語らなかったとしても、一番大事な「何か」はそれを究めた人間を媒介として自然に参加者に沁み込んでいくだろう。しかし、すばらしい療法であればあるほど、どんどん世界中に拡がっていく。そうして間にいろいろな人が入り、伝言ゲームのように内容が劣化していく可能性がでてくる。そうなると途中で誤った解釈が入り込むのを防ぐために、詳細なマニュアルが必要となる。その療法の真髄を究めたいという志をもってやってきた受講生も、いつのまにかマニュアルを頭に入れ、その通りに実施することで手一杯になってしまう。

 

 問題はバイトで入った高校生がマニュアルを使って何年も料理経験を積んだところで、凄腕の料理人にはなれないということだ。何十年も一生懸命汗水たらして働いたところで、ずっとファミレスの料理係の域を出ることはできないだろう。

Shima * セラピスト * 18:28 * - * - * pookmark

不食実験

 一昨年「奇跡が起こる半日断食」という本をきっかけに朝食を摂るのをやめた。しばらく続けると、朝食抜きの方が体の調子が良いとわかった。次に読んだのが「食べない人たち」という不食で元気に暮らしている方たちが書いた本で、「食べないと死ぬ」というのが嘘だとわかった。ちょうどその頃、血液栄養検査で食事内容を改善するよう指導を受け、また遅延型アレルギー検査で体に合わない食物がぞろぞろ見つかった。卵、乳製品、発酵食品など、一般に健康に良いとされているものでも、私には毒になるものが多い。そこで、食事は昼・夜の2食、夜は白米をやめて、自分の体に負担をかけないものを少量だけ食べるようにしたところ、その方が体が楽で快適に暮らせるとわかった。体脂肪率は25%くらい、体内年齢は実年齢より10歳程度若い状態をキープしている。

 

 ホモ・サピエンスは45〜20万年前に誕生してから、ずっと森で狩猟生活をして暮らしていた。我々のDNAはその頃の食物をベースに健康を保つようプログラムされている。近年、ヒトの食べるものは急激に変化したが、そんな短期間でDNAが変わってくれたりはしない。DNAはホモ・サピエンス誕生当初の食物に対応した身体を作るのに、現代人が口にする食物はぜんぜん違っている。そのギャップが身体的不調を生む。メタボリックシンドロームなどはその最たる例だろう。

 

 日本人は、白米、パン、麺、スイーツなど、毎日大量の炭水化物を食べるのが当たり前になっており、知らないうちに炭水化物依存症に陥っている。炭水化物が切れてくると、糖を求めて脳が暴れだす。私が食事を減らすようになってまず気づいたのは、自分が炭水化物依存症になっていることだった。猛烈に甘いモノが食べたくなったりする、あれは禁断症状なのだ。しかし、主食のごはんをもりもり食べるのを嗜癖行動と思う人は誰もいない。

 

 我々は子どもの頃から1日3回食事をすることが健康を保つために必要だと教育されているが、1日3回機械的に食事をする習慣を身に着けてもらった方が、経済を回していく上で都合が良い。みんながみんな不食になったら、世界経済は確実に破綻してしまう。「食っていけない」という言葉がある。食べるという嗜癖に陥っていれば、人は食物を手に入れるために放っておいても勝手に働き続ける。食べることが生きるための必須条件である限り、この経済ゲームから逃げ出すことはない。

 

 ここ3日ほど不食生活を続けてみたが、全然普段と変わらない。貧血でフラフラになったり、活力がなくなって動けなくなったりすることはなく、普段より脳がすっきりしている感じだった。3日間、普段通りの時間にそれなりの量のお通じがあるのがちょっと不思議だったが、調べてみたら成分のうち食物の残りかすは5%程度で、60〜70%が水分、残りは腸内細菌や腸壁細胞の死骸なのだそうだ。なるほど、それなら食べてなくても出て当然だ(笑)

 

 「食べても食べなくてもいい。自分の自由意思によって決めていい。」そうわかると、食べることは義務ではなく、楽しみになる。遭難したり、天災に見舞われるようなことがあったとしても、食べられないことによる生命の危機を感じてパニックに陥ることがない。生命にかかわる不安の一部を手放せる意義は大きい。縦方向の発達によって心理的な自由が増していくのであれば、食物依存を手放すことも発達のマイルストーンのひとつかもしれない。

 

(注意)断食/不食を試される方は、お寺や断食道場を利用して必ず専門家の監督指導のもとで行って下さい。

Shima * セラピスト * 10:47 * - * - * pookmark

庭師と農家

「なぜ部下とうまくいかないのか?」を出版された加藤洋平氏による成人の発達についてのゼミをいま受講している(発達の学び舎)。
その中で感じたことなのだが、人の発達・成長を支援する側には庭師タイプと農家タイプのふたつがあるように思う。

庭師タイプはその植物の特徴や現在おかれている環境を注意深く観察し、今後どのように成長していくのか、未来を予測していま必要な援助を行う。その植物が命を輝かせ、持てる特性を最大限にいかして生き生きと日々を暮らし、成長していく瞬間瞬間の美しさに魅了される。

農家タイプは収穫するときの市場価値を高めるために援助する。大事なのは収穫の時に社会からいいものだと認められることにあるので、収穫時の市場価値を高めるためであれば、作物にストレスをかけることもいとわない。特性を生かしたり、個性的であることよりも、誰からも認められる価値を身に着けることを良しとする。

最近の子育ては農家タイプに偏っている親が多いように思う。いい大学に入って、いい企業に勤めて、高い給料をもらうことに焦点をあてて、その子が本当に命を輝かせるような人生を歩めなくなっている気がしてならない。市場価値が高いことイコール良い人生を送れるってことではないんだけどなぁ。
Shima * セラピスト * 10:51 * - * - * pookmark

グリッド・コミュニケーション

私がセラピー中に視ているビジョンはアレックス・グレイというアーティストが描く絵に近いので、彼のSacred Mirrorsのカードをよく説明に使っている。今年に入ってから、この絵に描かれているようなグリッド(体の外に伸びる黄金色の網状のもの)をもちいたコミュニケーションの強化がセッションテーマのひとつになってるケースがけっこう多い。

私たちが顕在意識で物事を考えるときは、その問題に関係のあると思われるものを選び出し、テーブルの上に並べて、それぞれを組み合わせてみて、関連性を考慮するような形をとる。ところが眠っているときは、問題と関係ないと思われるようなものも全部含めて、頭の中にあるありとあらゆるものをランダムに組み合わせ、これぞという答えが見つかるまで試行錯誤を繰り返して答えを出す。

それと同じ感じで、我々が顕在意識を使ってコミュニケーションを行おうとする場合、果たそうとする目的に応じたターゲットを選び出し、そこに向かって物理的なコミュニケーションをはかる。自分がオセロの白で、ターゲットが黒だった場合、言葉がけや態度、表情、あるいはインターネットなどを介した言語表現を媒介として物理的な力を使い、ターゲットを何とか白にひっくり返そうと働きかけをする。強い言葉を使ったり、説得するために知恵を巡らしたり、威圧的な態度で相手を脅すこともあるかもしれない。あるいは逆に泣き落としにかかって、同情を引く手もあるだろう。

グリッドを用いたコミュニケーションの場合は、眠っているときの問題解決法と似ていて、時空を超えて全方向に自分の意思のエネルギーが放たれる。がんばって相手を白にひっくり返そうとしなくても、北風と太陽の説話のごとく、自分から放たれたエネルギーを受けて相手が自然と白にターンする。また、特定の相手だけをターゲットとしていないため、思ってもみなかったところから絶妙のタイミングで助けが入ったり、話が舞い込んだりもするようになる。

私が個人セッションを提供しているクライアントさんたちには講師として何かを教える機会を持つ方が多いのだけれど、私から数回セッションを受けた後、参加者からセミナーの質が変化したことをフィードバックされたという話がきかれる。講師が無意識的に参加者との間でグリッドによるコミュニケーションの場を形成するようになると、参加者が質問を口にする前に、講師がグリッドを通じてそれをキャッチし、先に答えを話しはじめるなどということがひんぱんに起こるようになる。そうなると参加者は講師が自分のことをわかってくれている、自分のことを見ていてくれていると感じるため、講師への信頼感が増す。「場をホールドする」という言葉があるが、あれはグリッドで会場の方々とのつながりを保持することにほかならない。講師の存在感の強さは場をどれだけホールドできているかによるし、それがプレゼンスの強さでもある。

グリッドによるコミュニケーションを可能にするには、グロスボディ(肉体)を基盤としたサトルボディ(目に見えない意識体)のエネルギーシステムが一定のレベル以上で働いている必要がある。ちまたでよく「プレゼンスの強化」をうたったビジネスセミナーが行われているようだが、小手先のテクニックだけでどこまでそういうことができるのか疑問だ。
Shima * セラピスト * 12:23 * - * - * pookmark

本能

 魔女友と話していて「男性のスピリチュアルリーダーは、ある程度いいところまで行ったところで、いきなり欲に走るパターンが多いね」って話になった。しっかり根源なる智慧とつながってワークしていたのが、多くの人から注目を受けたあたりから、富・権力・名声を得たいという欲に流されて金儲けに走ったりする。「何でなんだろう?」と問いかけたら、守護から答えが返ってきた。

 女性は産まれつき「子(人)を育てる本能」を持っている。子育てでは、いちいち見返りを求めているとやっていられない。それと同じことがスピリチュアルな仕事の姿勢にも現れる。男性は産まれつき「獲物をとってくる本能」を持っている。いっぱいとってこない男には価値がなく、女にモテないという思い込みもできあがっている。どれだけ獲物をとれるか、どれだけお金をもらえるか、どれだけ尊敬を集められるか、そういうのがが自分の価値のバロメーターになってしまうと、どうしても欲に走ってしまう。本能的欲求を、趣味とか、ゲームとか、スポーツとかで昇華させることができれば、おかしなことにならないそうだ。
Shima * セラピスト * 17:49 * - * - * pookmark

10分の9

 「10人中9人に嫌われるお部屋作り」をして、95%の入居率を維持している大阪の不動産管理会社の社長がTVで紹介されていた。誰もが「まあ良い」と思うような普通の部屋はそこら辺中にいっぱいある。そういう部屋は競争率が高いから、賃貸料を安くしても、なかなか借り手がつかない。ところが10人に1人しか気に入らないような変わった部屋だと、賃料が少々高くても「これこそ私のために用意された部屋!」といって、喜んで借りる人がいるのだという。

 お客の入らないフレンチの店に、立て直しのプロがアドバイスするTV番組でも同じようなことが言われていた。その店は、誰でも気軽に来られる店をコンセプトにしていたのだが、「誰でもOK」はダメだと指摘された。例えば、特別な時間を過ごしたい大人のお客には、料理に高級感がないし、小さい子供がいてうるさい。子ども連れのファミリーにとっては、子どもの口に合う料理があまりなく、子どもが騒ぐと迷惑がられるから、くつろげない。どっちつかずで、どのお客さんも「私のための店」という感覚が持てない。その後、アドバイスに基づき、客層を大人に絞り込んで、メニューも店の雰囲気もチェンジしたところ、あっと言う間に客数が増えた。

 星の数ほどセラピストがあふれかえっている昨今、100人に1人しかツボにハマる人がいない変わったサロンがあってもいいんじゃないかと思う。
ウチなんか光の国から来た宇宙人専用だもんな〜(笑)
Shima * セラピスト * 17:27 * - * - * pookmark

助けない

 先週、夢を見た。クラニオメイトのKさんに「セラピストの力量によって、セッションでクライアントにサムシンググレート(源)を体験させることは可能だが、本人の精神的な成長が伴っていないことには、意味がない」という話をしていた。

 スコット・マンデルカー博士のセッションを受けた時、親をはじめとする周囲の人たちがどのような考えを持っていたか、自分が取り込んで自己批判的な思い込みとして定着してしまっているものはないか、うんと小さい頃から年代を追って見直してみるよう言われた。それでぼちぼち思い返してみるようになったら、いろいろな気付きがもたらされた。その中でも大きなものは「困っている人を見たら、助けなさい」というのが母親からの刷り込みだったことだ。それと同時に、やたらベタベタしてくる依存傾向の強い母を、いやでも受け入れてやるのが愛情だという強力な暗示が入っていることにも気がついた。

 気づいて呪縛がとれてしまえば、さっぱりしたものだ。困っている人を見ても「うんうん、そういうドロドロを経験できるのも、3次元にいるうちだけだもんね。心ゆくまでドロドロを味わってね」と思って、まったく助ける気にならない。だいたい自分で解決できないような課題は与えられないのだから、誰かが助ける必要などない。そもそも「助けよう」などということ自体、上から目線で感じが悪い。依存傾向の強い人がくっついてきても、我慢して一緒にいようとは思わない。素直に面倒くさい。

 助けないというと「困っている人を助けるのがセラピストじゃないの?」といわれそうだが、先日すばらしいクライアントとのセッションを経験して「これからは困ってないクライアントをセッション対象にしよう」と確信に至った。困っていないクライアント、サバイバルレベルを脱しているクライアントとのセッションは、やっていて本当に楽しい。

 しばらく前に仲良しの魔女さんに「shimaちゃんは泥んこになって、転んで泣いてる子供を助け起して、きれいに泥を拭いてやって、着替えさせてあげて、さて、これからって思った時に、子供はまた泥の中に突進していって、ドロドロになっちゃってガッカリっていうことを繰り返しているよね」と言われた。泥んこ遊びをしたい子供は、この3次元世界で泥んこ遊びを心行くまで体験するというのがテーマなのだ。最終的に魂がたどりつくところはみんな同じ。そこにたどりつく過程は、本人の好き好きだ。今取り組むべきテーマが泥んこ遊びの方たちは、どんなセッションをやっても、泥遊びのことしか考えられない。彼らの頭の中は、いかに泥んこ遊びを楽しむかでいっぱいなのだ。それは私がセッションで本当にシェアし、探求し、高めていきたいものと全然違う。良いとか、悪いとか、レベルが高いとか、低いとか、そういうことではなくて、この人生で体験したいことが違う。泥んこ体験は泥んこ体験で、必要なものだ。だから、じっくり、飽きるまでそれに取り組む時期が必要だろう。ただ、私の今生のテーマはそれと違うから、一緒には遊べない。一緒に泥遊びをすると、ストレスになるし、時間がもったいないと感じる。私は泥遊びにつきあうよりも、宇宙の真理を探究したい。

そういうわけで、今後「助けない」という方針でいきますので、あしからず。
Shima * セラピスト * 10:34 * - * - * pookmark

魚釣り

ウィキペディアによると宗教とスピリチュアリティの違いは、宗教は「依存」の方向性を持つのに対し、スピリチュアリティは「自立」の方向性を持つことにあるそうだ。宗教は困っている人に援助をして依存させる。スピリチュアルは困っている人に自立して生きていく方法を教える。

スコット博士も魚釣りの例え話をしていた。飢えている人に魚を与えても、しばらくすればまた腹が減ってしまう。しかし、魚の釣り方を教えれば、自分で魚を釣って一生食っていけるようになる。カウンセラーやセラピストも、クライアントに魚の釣り方を教えるべきだと。クライアントにただ答えを与えるのではなく、自分で答えを見つけ出すことができるよう援助をする。

世の中にはスピリチュアルと言いながら、魚を売りつけるだけのセラピストも多い。しかし、意識の池の掃除をして魚釣りを覚えるよりも、てっとりばやく魚だけ食わせろというクライアントが多いのだから仕方ない。ニーズがあるからこそ、そういう商売が成り立っている。本気で自分を成長させ、自立していこうという決意を持ってセラピストを訪れるクライアントがどれだけいるだろう?本物のスピリチュアリティを求めているクライアントなんて少数派だ。みんな楽して当面の問題をやりすごせればそれで良いのだ。自分の内面と向き合って根本的な問題をほじくりかえずなどという面倒はしたくないのだ。検索をしていて「趣味・娯楽としてのスピリチュアル」などというフレーズに出くわして驚いたが、そんなものなんだろう。
Shima * セラピスト * 07:35 * - * - * pookmark
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