TV番組で、あるお笑い芸人さんの行動を密かに撮影するというのをやっていた。そこで発覚したのは、その芸人さんは、スポーツクラブの前に行って自撮した画像をSNSにアップし、定期的に運動してますというアピールをしているが、実際には写真を撮るだけで、何もしていなかったということだった。芸人さんに限らず、他者から良い評価をもらうことが大事になっている人は多い。自分がさも素敵な生活を送っている「リア充」ってあるかのようにSNS上の自分を「盛っている」人がいかに多いことか。

 

 学生時代、学校ではテストの点数が評価基準となっている。テストで良い点を取る子は良い子ども、テストで悪い点を取る子どもは悪い子ども。本来、テストはその科目に関する知識や理解度・応用力・技術力などのレベルがどの程度なのか客観的データをとって、その後の学習計画を立てるために用いるはずのもので、子どもの人としての価値を示すものではない。しかし、世間的には、テストの点数が人間としてのその子の価値であるかのように思われてしまっている。テストで良い点数を取れないなら、代わりにスポーツや芸術関係で何か素晴らしい功績をあげるなどして良いところを見せなければならない。他人様から存在価値を認めてもらえるような何かがなければ生きている資格がないというプレッシャーの中でみんなもがいている。

 

 そうやって育つと、社会からどのような評価を受けるか、他者からどう思われるかが大事になって、そこを自分の軸に据えてしまうようになる。他者から良い評価をもらうこと、他者を喜ばせることに自分の時間とエネルギーを注ぐようになる。しかし、いくら他人を満足させるためにしゃかりきになってがんばったところで、いつまで経っても自分は満たされない。そもそも自分の満足のために、自分を満たすためにエネルギーと時間とお金を使ってないんだから、自己充実していくはずがない。その空虚さを紛らわすために、SNSで素敵な自分アピールをして、他人様から「いいね!」の評価をたくさんもらって安心しようとする。

 

 意識の発達段階が上がれば上がるほど、自己中心性は減少していく。しかし、自己中心性が低くなればなるほど、自分の軸はしっかりと揺らがなくなっていく。そして、グリーンの段階に進んだとき、自分を評価する基準が、他者評価から、自己評価に大きく転換する。他人がどう思うか、社会的評価はオマケでしかなく、自分が納得するかどうか、自分が満足するかどうかが基準となる。評価を下すのは、自分の内なる神、真我である。オレンジ段階までの自我はバウムクーヘンのように幾重にもエゴに覆われているが、そこからエゴがどんどんはぎとられ、中心軸の真我が輝き始めるのがグリーンの段階だ。物質主義的な世界で生きていくにあたり、ある程度の他者とバランスする必要があるから、そつなく「いいね!」をもらうこともするが、そこが目的にはならない。

Shima * Life * 18:30 * - * - * pookmark

祝福

 今年最初の師匠との交換セッションでエネルギーワークを受けている時、この世で生きることを「祝福」されるということがどれほど大切か、体験的にわかった。祝福を受けることで、自分がこの世界に受け入れられ、抱かれていること、ただ生きているだけですばらしい価値ある存在であることに折り紙をつけてもらえる。西欧では、折に触れて儀式的に「祝福」をするが、自分自身の存在が揺らがないための土台を築くためにとても重要と思う。

 

 発達段階が上がる縦方向の成長では、古い自分の在り方をいったん死なせて、新しいゼロの自分に生まれ変わるプロセスを経る。はじめて足を踏み入れる未知の段階の世界で、何もできない何もわからない赤ん坊のような状態からスタートしなければならないというのはとても恐ろしいことだ。そこを越えていくために必要なのは、自分はいかにあろうとも常に世界から祝福され、受け入れられ、愛を与えられる存在であるという揺るぎない安心感だろう。これまで築き上げてきた自分でなければ世界は受け入れてくれないと信じていたら、ゼロになるプロセスに踏み込んでいくことはできない。

 

 大昔に受けたインテグラル・コーチングのメモにFaith(=信仰、信頼、自信)について書かれていた。

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James Fowler 'Stages of Faith'

 Faith:自分が生まれてきたことは祝福されている

     愛情に満たされた感覚

     信頼されている&信頼できる

Faithは宗教・文化を超越した生きる原動力でこれがないと生きていけない。Faithが破壊されていると世界を斜に見て破壊さえいとわないようになる。

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あの時、師匠が言っていたFaithの意味を遅ればせながらやっと理解した次第。人と人とのあらゆるコミュニケーションやヒーリングなど、祝福をベースにできたら素晴らしいと思う。

Shima * Life * 09:43 * - * - * pookmark

タンポポはタンポポらしく

 「ありのまま」とか「自分らしく」とかいうと、現状維持で何も変わらなくて良しということだと考える人がいるがそれは違う。「ありのまま」とか「自分らしく」というのは、「自分がタンポポなら、タンポポらしく成長して、タンポポとしての美を輝かせて生きていけ」ということだ。世間でバラがもてはやされ、高く売れるからといって、自分はタンポポなのに、偽物のバラになろうとするのは意味がない。ありのまま、そのままの未熟な自分を受け入れてくれる人や場所を探し、そこで何の努力も成長もせずにのんべんだらりと一生過ごせば良いという話でもない。自分のありのままとしっかり向き合った上で、そこから自分らしい素敵な未来の自分に向かって歩いて行きましょうということだ。自分は自分にしかなれない。自分以外の者にはなれない。自分が何者かをよく知るところから始めないといけない。

 

 「自分がちっぽけなタンポポであることを認めたくない」「これまで高級なバラになるためにつぎ込んできたお金と時間と努力が無駄になる」などなど、いろいろな理由で、自分の本来の在り様を認められない人がいる。生まれつきバラな人が苦労もなく立派なバラの花を咲かせているのをみると、そうではない自分への嫌悪感が強くなり、親を呪い、自分を呪い、世間を呪い、ますますありのままの自分と向き合おうとしなくなる。バラにはない良さが自分に備わっていても、そこに目を向けようとはしない。「あなたはバラだ」と言ってくれる嘘つきにホイホイついていき、「あなたはバラではない」と言う正直者を遠ざける。世間から認められ、ちやほやされる偽物の自分になっても、本物の自分は成長できないまま置き去りにされているから、空しさが消えない。心の渇きにさいなまれる。自分自身を偽り薄っぺらな虚構の世界を生きても、心が満たされることはない。

Shima * Life * 09:29 * - * - * pookmark

道具

 高校卒業後、上京して大学の英米文学科に入った。3年生の頃、国連英検A級を受験したが、面接で落とされた。今はどうか知らないが、当時、国連英検A級では英語で自分の専門分野について説明し、意見を交換する能力があるかどうかが問われた。そこで気づかされたのは、英語は道具でしかなくて、語るべき中身がなければ何もならないということだった。美術学校に行って様々なテクニックを習って身に着けたら誰でもすばらしい絵が描けるかというと、全然そんなことはない。それと同じことなんだよね。

 

 昨年末、臨床心理士試験に合格したので、師匠である鈴木規夫さんに「臨床心理士資格を持っていないと参加させてもらえないEMDRのトレーニングなどに参加しようと思っている」という話をしたところ、「臨床心理士の人たちって、やたらスキルをつけることにばっかり熱心だよね」と言われた。そうそう、忘れてはいけない。さまざまな心理援助スキルもただの道具でしかない。何より大切なことは、自分の中身をしっかりと確立すること、そしてその道具を使って自分が世界に何を顕していくかなのだ。語るべきものが何もないのに、立派な道具だけ取り揃えてやったつもりになっていてはならない。手段を目標にしてしまわないことが大事だ。

Shima * Life * 12:29 * - * - * pookmark

内戦

夢を見た。

 

SLが走っている街に仲間と旅行に来ている。外は戦争状態で危険なので、ホテルにこもって安全を確保している。

 

現地ガイドの女性が「ここでは戦う事と身を守ることのためにお金とエネルギーと時間のすべてが使われています。みんながお金とエネルギーと時間をウェルネスのために使うようになったら、世界は変わるのに」と話した。

 

すると仲間が即席の撮影セットを組み立てて、名物のお饅頭の写真を撮り始めた。「ん?お饅頭?ここって日本なの?」と思ったところで目が覚めた。

 

日本はいま戦争状態にはない。しかし、所属集団同士の利害関係をめぐる戦いはますます勢いを増しているように思う。いまだ戦争はなくなっていないのだ。自分のウェルネスを追及することは、自己中心的であるとして後ろ指をさされ、他者のために尽くすことが美徳とされる。自分が所属する集団、国や地域や会社や学校や家族のウェルネスのために、個人のウェルネスを犠牲にすることを強いられる。公共のウェルネスのために自身の在り方を押しつぶされてしまわないために、せめぎ合いが続く。

 

自国 対 他国の戦いから、所属集団 対 他集団の戦いへ、そして、自分 対 他者の戦い、最後には自分自身の中での戦い(理性 対 欲望など)・・・戦いはだんだん内側へと潜り込んでいって見えなくなるが、延々と続いている。表面上は平穏なように見えていても、みんな毎日なにかと戦うことにお金とエネルギーと時間を費やして生きている。内側には得体の知れない不安が渦巻き、焦燥の炎がブスブスとくすぶり、生存のための戦いが続く。戦いをやめるという選択肢には気づかない。

 

去年、高野山に行ったとき、宿坊で風呂上りに「無敵」と書かれたTシャツを着ていたら、お坊さんに苦笑された。「無敵」というのは、敵となる存在がいないくらい強いという意味だが、「戦わないから敵がいない」という意味で「無敵」を掲げるのはどうだろう?

 

マインドフルネスが流行る一因は、不安や焦燥から離れた穏やかな状態になり、自分の中の内戦を一時的にストップできるからなのかもしれない。昔、スコット・マンデルカーさんが「瞑想をリゾートにしてしまう人が多い」と嘆いていたなぁ。

Shima * Life * 12:35 * - * - * pookmark

自由の時代

 身体の無意識の緊張を解消すると、自然に良い姿勢になる。「良い姿勢にしなさい」と言われて、意識して良い姿勢にしようとする場合、無意識に緊張しているところはそのままで、逆方向に筋肉を緊張させてひっぱることになるため、結果的に緊張している部分が増えてしまう。もし、その緊張が気にならなくなって定着するまで続けたら、緊張が固定して身体は柔軟性を失う。そのうちにどこかに痛みが出てくる。力づくで理想的な身体の形にもっていくバキボキ系の整体なんかも同じこと。大事なのは、心身の呪縛を解消して自由にしてやることだ。それによってクライエントは自己治癒力を回復し、自分を整えて成長していく。

 

 むかし「巨人の星」というスポ根アニメが流行った。親の期待に沿い、我慢して苦労して努力して、社会から認められるヒーローになっていく物語。主人公は、世間様が良しとするすばらしい何者かになるために、自分の限界と戦う。

 

 いまは「ワンピース」という海賊アニメが流行っている。自分のありのままを生かし、社会的制約など気にせず、自由に生きることを貫く物語。主人公は、自分らしく生きて夢をかなえるために、自分を支配したりコントロールしようとする外の者と戦う。

 

 私がエネルギーワークのベースに使っているCraniosacral Biodynamics Therapyで、セラピストはクライエントの内より立ち上がるSomething Greatにすべてをゆだね、その手先となって場を保持する。クライエントの内なる叡智が自由に「いまここで起こるべきことを成す」のを見守るだけだ。このアプローチは過去の呪縛を解き放ち、この新しい自由の時代を生きようとする者にとって最適だと思う。逆をいうと、古い時代のやり方がお好きな方には向いてないってことになるけどw

 

Shima * Life * 18:50 * - * - * pookmark

なりたいものになっていく

 ここ最近のクライアントさんたちを見ていてよく思うのは「人はみんななりたいものになっていくものだなぁ」ということ。時期がくれば放っておいても自然と花が咲くように、なりたいものへと変容していく。

 

 自分がどうなりたいのか、明確なビジョンを持っているということは、ブレずに自分らしく生きていくために大切だと思う。物事を極めるにはだいたい1万時間かかると言われている。日々の生活を維持しつつ、1万時間も投入しようとすれば、どうしたって10年はかかる。10年後、自分がどうなっていたいのか、そこのところをハッキリさせて、今から種を蒔いておいた方がいいだろう。

 

 レストランに入っても注文をしなければ何も出てこない。そんなの当たり前。なのに、人生に関しては、具体的なオーダーを出さずに「何かいいことがあるといいな〜」みたいに漠然と考えてるだけの人が意外に多い。レストランに入って「お腹空いてるし、何か美味しいものが食べたいな〜」と思っているだけでは何も出てこない。店員さんを呼んで「五目焼きそばと春巻きを下さい」とかハッキリ口に出して言わないと! 

 

 同じ場所に居て、同じ事をしていても、それぞれ自分の中に取り入れるものが違う。無意識に情報を取捨選択し、自分が焦点化している事に関するものが集まってくる。そこのところを明確に意識し、周りにも宣言しておく。「オーダーを出しておく」というのはそういうことだ。それによって、さらに多くの情報が自分の下に運ばれてくることになる。現代において情報は力となる。必要な人間関係もつながっていく。

 

 人が進化・成長するときには、challengeとwillとsupportの3つが必要と言われている。challengeは何としても乗り越えなければならない試練が与えられている状況。willは何としても自分をバージョンアップさせたいという強い意志。supportはその人の変容を支え助ける周囲の人々や家族、セラピスト、コーチ、リソース、環境など。この3つがパチッとそろった瞬間に花が咲きはじめる。

 

 「supportなんかいらない、自分の努力だけで何とかする」とがんばる人もいるが、人は無意識に「変わらないためだったら何でもする」くらいの勢いで、変わらないことを選んでしまう。古い自分を死なせて、新しい自分に生まれ変わるという変容のプロセスに身を投じることは大変な恐怖である。無意識にそこを回避して、本来進むべき成長の道とは見当違いの方向で努力を続け、エネルギーと時間を費やすことで安心してしまう人も多い。だからこそ、いまの自分の状態を客観的にみてフィードバックしてくれる鏡となる第三者のsupportは必須となる。

Shima * Life * 10:35 * - * - * pookmark

目的と手段

 目的と手段を混同しないこと。

 

 十代の頃、国連英検A級の試験を受けたことがあった。筆記はパスしたが、面接で一度落ちた。国連英検A級の面接試験では、自分の専門分野について面接官に語る必要がある。すなわち、スキルとしての英語を使いこなす能力だけではなく、それを通じて自分が何を世界に発信したいのかを問われるのだ。その時、自分の中に語るべきものがないことにショックを受けると同時に、英語はひとつの手段であって、目的ではないことを思い知らされた。英語のスキルがどんなに上達したところで、中身が空っぽでは意味がない。大事なのは中身の方だ。

 

 新しいスキルを身に着けようとするとき、いったんはそのスキルを身に着けることが目的となるステージを通過する。しかし、そのまま手段を目的にすえてしまってはいけない。例えば、スポーツは心身の健康を維持し、よりよく生きるための手段のひとつである。ところが夢中になりすぎると、スポーツ自体が目的に替わってしまうことがある。そうなると、充分な休息をとらず、身体が壊れて動かなくなるまで酷使したり、精神のバランスを崩すほど強いストレス状態に身を置き続けて、一生消えないトラウマを背負いこんだりするようなことが起こる。心身の健康の維持が目的であれば、十分な休息をとるとか、栄養たっぷりの食事をとるとか、身体を冷やさないようケアするとか、健康増進のための他の手段にも目が行くが、スポーツ自体が目的になってしまうと他のことには目もくれなくなってしまう。

 

 勉強とか、お金とか、素敵な家とか・・・・本来は人生を深めてよりよく生きるための手段であったものが目的と化してしまって、人生を狂わせている例には枚挙にいとまがない。もっと言えば、「悟り」すらも、手段でしかない。手段を目的にすえて生きると、本末転倒になってしまう。

Shima * Life * 16:18 * - * - * pookmark

自然の恵み

 自分自身で食物を採って(獲って)食べる体験を充分にしているかどうかが、潜在意識レベルで、生き方に大きな影響を与えているのではないかと思う。採取活動を充分にしていると、食物が自然の恵みであることを身体が覚える。食物と自然が無意識のレベルでつながる。食物という生命を維持するのに欠かせないものが自然とつながっている場合、自分を取り巻く自然環境が安定して存在している限り、身体は生命の危機を感じない。

 

 しかし、その経験がない場合、食物はお金によってもたらされるものとなる。食物とお金が無意識のレベルでつながっているから、お金がない、お金が稼げない、お金が使えないなどの状況になると、それがそのまま生命の危機につながってパニックに陥ってしまう。お金と自分の生命が無意識のレベルでがっちりつながっていると、貨幣経済の、フラットランドの檻から抜け出ることが難しくなる。自分ではお金に縛られていないつもり、自由であるつもりでいても、潜在意識レベルでは生命の危機とつながったお金を切り離すことができない。

 

 山菜採り、栗拾い、芋ほり、潮干狩り、魚釣りなどをして、自分で調理して食べるという原始的な人間が日常的にやっていたような経験をできるだけたくさんする事が、お金に囚われた自分を解放するために必須なのではないかという気がする。

Shima * Life * 17:59 * - * - * pookmark

パズル

 月1回のインテグラル・コーチングを受けはじめてから、もう9年目になるだろうか。1か月の間に起こったこと、感情が大きく動いたこと、気づいたこと、疑問に感じたことなどをドバーッとテーブル上に出すと、師匠は、バラバラのパズルのピースのような出来事ひとつひとつをきちんと秩序立てて収まるべきところに収め、そこに浮かび上がる絵を提示してくれる。そのようなサポートを継続的に受けながら、私は日常で起こる様々な体験を客観的に分析し構造化することや、そこから抽象的な概念を導き出す方法、体験から得た気づきをしっかりと自分の内面に落としこんで定着させることなどを学び、身につけてきたように思う。まあ、まだまだパズルのピースがうまいことはまらなかったり、カオスに落っこちて師匠に助けてもらうことがしょっちゅうあるのだが(笑)

 

 人生のパズルの絵はあまりにも大きく、なかなか全体を見ることは難しい。意識の段階が低いほど、狭い視野しか持てず、部分部分しか見えてこない。人生の最後の最期、パズルのピースが全部そろってはめこまれた時になってやっと自分の人生の絵が完成し、人生を貫いて描かれていたテーマがわかるのだろう。それまでは自分の人生の目的だの、意味だの考えても、あまり意味がない気がする。ただ、その時その時に得たピースをきちんと人生の絵の中にはめこんでいく作業だけは地道に続けていかなければならない。ピースを集めるだけ集めて山にしたままでは絵はいっこうに完成しないのだから。

Shima * Life * 10:24 * - * - * pookmark
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