自然の恵み

 自分自身で食物を採って(獲って)食べる体験を充分にしているかどうかが、潜在意識レベルで、生き方に大きな影響を与えているのではないかと思う。採取活動を充分にしていると、食物が自然の恵みであることを身体が覚える。食物と自然が無意識のレベルでつながる。食物という生命を維持するのに欠かせないものが自然とつながっている場合、自分を取り巻く自然環境が安定して存在している限り、身体は生命の危機を感じない。

 

 しかし、その経験がない場合、食物はお金によってもたらされるものとなる。食物とお金が無意識のレベルでつながっているから、お金がない、お金が稼げない、お金が使えないなどの状況になると、それがそのまま生命の危機につながってパニックに陥ってしまう。お金と自分の生命が無意識のレベルでがっちりつながっていると、貨幣経済の、フラットランドの檻から抜け出ることが難しくなる。自分ではお金に縛られていないつもり、自由であるつもりでいても、潜在意識レベルでは生命の危機とつながったお金を切り離すことができない。

 

 山菜採り、栗拾い、芋ほり、潮干狩り、魚釣りなどをして、自分で調理して食べるという原始的な人間が日常的にやっていたような経験をできるだけたくさんする事が、お金に囚われた自分を解放するために必須なのではないかという気がする。

Shima * Life * 17:59 * - * - * pookmark

パズル

 月1回のインテグラル・コーチングを受けはじめてから、もう9年目になるだろうか。1か月の間に起こったこと、感情が大きく動いたこと、気づいたこと、疑問に感じたことなどをドバーッとテーブル上に出すと、師匠は、バラバラのパズルのピースのような出来事ひとつひとつをきちんと秩序立てて収まるべきところに収め、そこに浮かび上がる絵を提示してくれる。そのようなサポートを継続的に受けながら、私は日常で起こる様々な体験を客観的に分析し構造化することや、そこから抽象的な概念を導き出す方法、体験から得た気づきをしっかりと自分の内面に落としこんで定着させることなどを学び、身につけてきたように思う。まあ、まだまだパズルのピースがうまいことはまらなかったり、カオスに落っこちて師匠に助けてもらうことがしょっちゅうあるのだが(笑)

 

 人生のパズルの絵はあまりにも大きく、なかなか全体を見ることは難しい。意識の段階が低いほど、狭い視野しか持てず、部分部分しか見えてこない。人生の最後の最期、パズルのピースが全部そろってはめこまれた時になってやっと自分の人生の絵が完成し、人生を貫いて描かれていたテーマがわかるのだろう。それまでは自分の人生の目的だの、意味だの考えても、あまり意味がない気がする。ただ、その時その時に得たピースをきちんと人生の絵の中にはめこんでいく作業だけは地道に続けていかなければならない。ピースを集めるだけ集めて山にしたままでは絵はいっこうに完成しないのだから。

Shima * Life * 10:24 * - * - * pookmark

役割

 人は誰かと関わるとき、相手との関係性によって生じる役割を演じる必要性に駆られる。例えば、相手が先生であれば、いわれた通り素直に従う「よい生徒」となるよう求められる。相手が上司であれば「よい部下」、相手が親であれば「よい子」、相手が配偶者であれば「よい妻」もしくは「よい夫」、相手が医師であれば「よい患者」であるよう期待されるだろう。人は誰かと関わるとき、相手がどんな役割を自分に望んでいるかを鏡のように映して、半ば自動的に反応する。

 

 そうやって、いつもいつも役割を演じていると、いつのまにか役割が自分そのもののようになっていってしまう。「すべての役割をひっぺがしたら何も残らなかった」「役割を与えられればこなすことができるが、何でもしていいと言われると、何をしたらよいのかわからない。自分が本当は何をしたいのかさっぱりわからない」などという人が増えてきている。それで本当に自分の人生を生きているといえるだろうか?

 

 光と闇、プラスとマイナス、右と左、上と下、善と悪などなど、対極にある2極の間で「バランスする」とは、2極の真ん中で静止することではなく、ふたつの極の間を臨機応変に自由に行き来できることをいう。そして両極の間を行ったり来たりする振り子のような動きによって生命力が生まれる。

 

 「役割」は相手(あるいは社会)が求める理想像であるから、対極にあるのは「ありのままの自分」ということになる。役割の方に固着すれば、ありのままの自分を失くしてしまう。ありのままの自分に固着すれば、社会的な居場所を失ってしまう。

 

 私がエネルギーワークのベースに使っているクラニオセイクラル・バイオダイナミクスでは、クライアントに対して一切の働きかけをしない。ただただクライアントの内のエネルギーの満ち引きを見つめ、サムシング・グレートが起こるべきプロセスを完遂する場をホールドする。クラニオセイクラル・ダイナミクスのセラピストはクライアントに対して何の働きかけもしないための訓練を受ける。セラピーの間、セラピストはひたすら透明に、無になる。役割は相手の望みによって生じるわけだが、このワークではセラピストはクライアントに何も求めず、自らも無となっている。そうなると、受け手も役割をはぎとられて無に帰っていくしかない。ここが他のセラピーにはないユニークなポイントといえるだろう。

 

 瞑想を何年も続けている方達によると、私のエネルギーワークでは、手を触れられてすぐに深い瞑想状態に入って、自分をやすやすと明け渡すことができるそうだ。そうすると、ふだん役割に縛られ続けて生きている方達の意識の振り子を、対極方向に振ることができる。そこで、ありのままの本来の自分に出会うことで、自分の軸がはっきりする。また、その振り子が振られる動きによって生命力が生じ、個としての生命力と、社会的な生命力の両方が回復する・・・なんて一挙両得のおいしい効果があったらいいんだけど、どうかなぁ。

Shima * Life * 16:28 * - * - * pookmark

1枚の絵をみるように

 絵をみるとき、小さな部分部分をみていたのでは、全体がわからない。この部分は黄色が塗られていて、こっちの部分は茶褐色が塗られているなどというのは、まったくもって意味がない。人生も同じ。小さな部分部分に囚われていると、全体の絵がみえない。テーマがわからない。

 

 画家が魂を込めて描いた絵には、みた人の人生を変えてしまうほどのパワーがある。その絵と対峙したとき、我々の存在全体に響いてくるものがある。人から生み出された作品でさえそれだけのパワーがあるのだから、まして生身の人間は底知れない。

 

 フラットランドに毒されている人は、他の人と会った時、相手の部分部分には注目するが、1枚の絵をみるようにその人を味わっていないことがある。絵をみるときに、絵画の価値や値段、批評家の論評、どこの美術館に飾られているのかなど、外部的なデータに頼って絵の価値を判断するように、人についても社会的な地位や持っているリソース、利用価値で人を値踏みする。しかし、そんなデータをいくら集積したところで、本当にその人を「わかる」ことはできない。

 

 自分の魂に響いてくるその人の存在感、その人の人生を貫くテーマは何か・・・あたかも素晴らしい絵画を味わい尽くすように人をみる。その見方は自分自身をみる時にも働いている。他者の「利用できる部分」しかみない人は、自分をみるときも全体ではなく、部分しかみていない。

Shima * Life * 08:29 * - * - * pookmark

重荷

 友達の結婚式などで何度も歌わされたのですっかり覚えてしまったのだけど、讃美歌で「いつくしみ深き友なるイエスは 罪・咎・憂いを取り去りたもう こころの嘆きを包まず述べて などかは降ろさぬ 負える重荷を」というのがある。この「重荷」について、先日、ある方の守護様が面白いことを言っていたのでシェアしておきたい。

 

 ボディワーカーの間では「こころの重荷をたくさん背負っている方は肩こりになる」と言われているが、守護様がおっしゃるには、この重荷というものは幻なのだそうだ。確かに物理的には何も背負ってないわけで、心理的に重圧を感じているだけなのだから、幻といえば幻なのだろう。守護様いわく、「人の重荷はイエス・キリストが代わりに背負うと誓ったのであるから、さっさと渡してしまって、こころ軽やかに淡々となすべきことをなし、気づくべきことに気づき、学ぶべきことを学んで成長しなさい。重荷の重圧で身動きできなくなるなんてことのないよう、伴に道を歩く神に荷物持ちをしてもらいなさい。」

 

 私の守護がいうには、個が幻の重荷に苦しむのは、全とのつながりが切れてしまっているからなのだそうだ。先述の守護様がいうとおり、自分が大いなるものとしっかりつながっていれば、どんなに大変なことが起こるとしても、それは自分が背負う重責にはならず、大いなるものが受け止めてくれる。重荷を感じている時は、個に偏っているから、全の方に振り子をふるよう意識すること。この世界で起こることはすべては大いなる宇宙の意志によって編み上げられるタペストリーのようなもので、どのような模様が紡ぎだされるかについて個人が思い悩んだり責任を感じる必要はない。

Shima * Life * 17:54 * - * - * pookmark

安全基地とIWM

 心理学用語で安全基地(secure base)というのがある。乳幼児期、養育者との関係性の中で安定した愛着(attachment)が形成され「私はいかにあろうとも受け入れられ愛される」という確信が得られると、外界に対する信頼と自分に対する信頼(基本的信頼感)が生まれ、揺らぎの少ない安心感を持って生きていけるようになる。子どもは養育者を安全基地として外の世界へと探索に出かけ、怖い目にあったら安全基地に戻って傷を癒し、外の世界に立ち向かっていくさらなる力を得る。安全基地としての養育者は徐々に内在化して物理的に存在する必要がなくなっていくが、その過程でライナスの毛布のように自分に安心安全な感覚をもたらすものを安全基地代わりにすることもよくある。大人になってお守りやパワーストーンを身に着けたりするのも、この感覚のなごりかもしれない。

 

 安全基地ができるのと並行して、自分と外界をどうとらえ、どう反応するのが適切かを判断する内的作業モデル(Internal Working Model:IWM)が作られる。適切な愛着の形成がなされなかった場合、往々にして不適切なIWMが作られてしまい、大人になって社会に出てから生きづらささや対人関係の難しさに苦しむことが多い。

 

 「待機児童をゼロ」が声高に叫ばれ、乳幼児を持つ母が仕事に駆り出されるのが当たり前になってきている日本社会では、母子密着の時間を充分に持つことが軽視されている。こんな状態で適切な愛着が形成できるだろうかと危惧してしまう。TVのコメンテーターが「子どもとふたりきりで家に閉じ込められるかわいそうな母親を減らすために、早急に対応する必要がある」などと言っていたのを聞いたが、発達早期に母子を引き離すことはホスピタリズムやマターナルデプリベーション(母性剥奪)と紙一重に思える。物理的な栄養はもらえても、愛情という心の栄養を充分に与えてもらえなかった子どもは、大きくなってから育ちそびれた部分に苦しむことになる。

※ ホスピタリズム(hospitalism):乳幼児期に長期に渡って親から離され、施設に預けられることで心身の成長に遅れや障害が出ること

※マターナルデプリベーション(maternal deprivation):養育者から愛情に満ちたケアを十分受けられなかった子どもに心身の発達の遅れが出ること

 

 内的作業モデルは「人生の生き方の指針」のような働きをするようになっていくが、幼少期の養育環境にあわせて作られるため、成長に伴い、更新することが必要となる。私はセラピストとして、古いIWMに縛られて生きにくくなっているクライアントの呪縛を解く援助をすることがあるが、乳幼児期、9歳の壁といわれる時期、10代後半〜20代前半のアイデンティティが形成される時期に退行して書き換えが行われる場合が多いように思う。逆をいえば、IWMが更新されるその時期をどう過ごすかが人生の鍵となっていると考えられる。

 

 クライアントがIWMを書き換えるとき、セラピストは絶対に揺らがない安全基地を提供する必要がある。クライアントが傷ついた心と体を休ませ、癒し、英気を養うために帰れる場所、ヨロイを脱ぎ捨てて丸裸になっても大丈夫な場所。ここを足場としてクライアントは超えられなかった壁をよじのぼって超え、その先の、未知の世界へと活動できるフィールドを拡げていく。 

Shima * Life * 08:59 * - * - * pookmark

ジグソーバズル

 ジグソーバズルはひとつでもピースが欠けていたら完成しない。ワンネスは全であり、自分の中のたったひとつのピースが欠けてもそこには至れない。

 

 私たちは子どもの頃、人間関係に適応するために、不適切といわれる感情を抑圧し、切り離す。また、成長過程でショッキングな出来事があった時、心が砕け散るが、十分な時間をとらずに無理に前に進むと、傷ついた一部が置き去りにされる。そのようにして失われたピースがある限り「私」は完成しない。

 

 幼少期の養育者との関係やトラウマによって失われたピースを自分ひとりで掘り起こすことは難しい。最近、交換セッションでエネルギーワークを受けていると、まだ言葉を話せない0〜3歳頃のこと、つまり言葉を使ったセッションではアプローチすることが難しい時代のトラウマを解放するプロセスに入り込むようになった。何が起こっているのかつかむことができないのだが、ただただ感情が動いて涙が流れる。身体に刻まれた感情記憶というものだろう。しかし、その時の想いが今の私の対人姿勢の元になっていることはわかる。このプロセスを通して私は私の一部を取り戻すのだろう。

Shima * Life * 13:12 * - * - * pookmark

日常を楽しむ

 1日の終わりに
「何事もなく平穏な1日をすごせてよかった」と思うか、
「何事もない平穏な1日でつまらなかった」と思うか。

 最近、しあわせな人生を送れるかどうかというのは、ごく普通の日をいかに楽しめるかにかかっているんじゃないかと思う。ふしぎの国のアリスに「お誕生日じゃない日の歌」というのがあって、いかれ帽子屋が「なんでもない日 万歳!」と歌う。1年365日のうち、誕生日は1日だけ。誕生日を祝うなら、1年に1回しかお祝いできないけど、誕生日じゃない日をお祝いするなら、364日も楽しい日があることになる。

 非日常を楽しむ : 外から強い刺激を受ける⇒興奮する⇒楽しい⇒しあわせ 
 日常を楽しむ   : 穏やかな環境⇒リラックスする⇒心地よい⇒しあわせ

 非日常にばかりしあわせを求める人のしあわせは、外からどんな刺激をもらえるかにかかっている。彼らの口癖は「何か面白いことない?」で、何でもない普通の日は退屈で不幸で、たまにある楽しいイベントの時にだけ生き生きとしてしあわせを感じる。特別な日のために生きていて、普段の生活はその日のために耐え忍んでいるようなものだから、何にもない日を充実させる努力をしようとはしない。でも、しあわせな日はちょっとしかなくて、退屈なつまらない日の方がだんぜん多いので不満がつのる。鬱屈した不満を発散させるためにも、非日常の楽しいイベントが必要になる。悪循環。なかなか強い刺激が得られないと、アルコールやギャンブルにはまったり、買物依存になったり、恋愛遍歴を重ねたりすることもある。

 「七歳までは夢の中」という文庫本に紹介されていたシュタイナー教育を取り入れた保育園では、子どもに強い刺激を与え過ぎないように配慮がなされているそうだ。何気ない日常をていねいに暮らすことを楽しみ、その中でいろいろな気付きを得られるような生き方を子どもに涵養していく。どぎつい色の量産品のヒーローのフィギアではなく、その子のことを思い浮かべながら心をこめて手作りした羊毛のやわらかい色合いの人形。油ギトギトの味の濃いファストフードではなく、季節の野菜をシンプルな味付けでゆっくり煮込んだスープ。体にもこころにもやさしい栄養を補給しながら、おだやかな生活を心地よいと思えるように育っていく。なんとすばらしいことか!

Shima * Life * 17:40 * - * - * pookmark

pilgrimage

 卒業旅行に出かける前に受け取ったメッセージ。
「人生とは自分の内なる神に出会うための巡礼の旅(pilgrimage)である」

 神といっても、いわゆる「神様」ではない。それがどんなものかを言葉にすることは難しいが、サムシング・グレートとか、ワンネスとかというイメージの方が近いだろう。それは無条件の愛と叡智と力(エネルギー)の源泉でもあるし、本来の自分自身を思い出す過程ともいえる。

 インテグラルでいうところのヴィジョン・ロジックに到達する以前の段階では、外から入り込んだ神様が陣取っている。それは誰かが作った宗教の神様だったり、金、富、名声、地位、権力、武力だったりする。そういうものをありがたがって信奉し、追い求め、手に入れても、結局内側は満たされず、空っぽのままだ。

 ヴィジョン・ロジック段階に入ると、内側の神と出会い、自分自身の神に導かれる人生が始まる。それが「目覚めて生きる」ということだ。これまでに生きてきた地上界で大事と言われているものが幻だということが体感としてわかる。内側の神の示す万物を統べる天界の価値観やルールが規範となり、それと地上界社会の在り様とのバランスを取りながら生きることが課題となる。自身の内側の神からあふれてくる無限の力や、天の叡智をいかに地上界に表現していくかが人生のテーマとなっていく。

 ヴィジョン・ロジック段階に至るには、ニセモノの神に幻滅するという危機を経ることが必須で、その前段階として富や権力にどっぷりハマる段階を経験する必要がある。縦方向の発達は下からピラミッドのように積み重ねていくもので、一足跳びに高い段階に行けるわけではないから、どの段階も十分に味わいつくす必要がある。そうでないとせっかく上の段階に上っても、足元が崩れてまた下の段階に落っこちてしまう。ヴィジョン・ロジックに達した人からみると、それ以前の人達はさながら夢を観ながら幻を追い求めて生きているように見えるが、それも必要なのだ。

Shima * Life * 18:10 * - * - * pookmark

小学校のような世界

 私たちが今生きている3次元世界というのは卒業期間無制限の小学校のようなもの。どの科目もすべて必修で、ひとつ残らずぜんぶ体験し、学習し、「ああ、こういうことか」と腑に落ちて身になるまでは、いつまで経っても卒業できない。

 人生における危機や困難というのは、試験のようなものだ。軽々と乗り越えられたなら、進級してもっと高度な課題が与えられることになるし、まったく歯がたたないならば、まだまだ足りない部分があるから、そこの学年で勉強を続ける必要がある。試験の目的は、自分がクリアした部分と、まだクリアできていない部分を見極め点検することにある。危機という試験課題に真剣に取り組まず、誰かのせいにして回避ばかりしていたら、上の学年には上がれないし、同じような問題をこれからも何度も何度も解けるまで繰り返し与えられるだろう。

 どこかの偉い師匠のところに行って、問題解決法を教えてもらったり、何かすごい技を伝授してもらって精神性の高い経験をしたらイッパツで次の段階に進めるなんて思ったら、大間違い。やり残した科目が免除されることはないし、本当に身についていない科目の単位はもらえない。自分のレベルに不釣り合いな高度な課題に手を出しても、リセットされてすぐに今の自分のレベルにあった課題にひき戻されてしまう。やりたいことや好きなことばかり繰り返したり、だらだらと日常をやりすごして暮らすのも同じこと。卒業のための単位数がちっとも増えない。

 この世界のすべてを味わいつくし、もう何ひとつ思い残すことはない、もはやここに生まれ変わっても何も学ぶことがないと満足したとき、魂は成仏して3次元世界への輪廻の輪を止める。そして、この物質的な小学校を卒業することになる。宇宙という教師は壮大な計画を持って我々を見守り、ひとりひとりにタイミングよく課題を与えてくれる。だから、何気ない日常を丹念に味わって深く体験し、より多くを学びとることの方が、いかにもスピリチュアルですよというような浮世離れした生活にどっぷり浸かって彩の乏しい人生を送るよりも、かえって卒業への近道になる。今この人生で起こる出来事をひとつも取り逃さず貪欲に味わい、やったことのないさまざまなことに挑戦してみたり、普段あまり話をする機会のない人たちと交流してみることだ。新しい方向性が見えてきたり、ヒントが見つかることもある。

 1年生魂の人も6年生魂の人も、いっしょくたにこの地球というひとつの教室で学んでいる。名札がついているわけじゃないから、何年生なのか、見た目ではわかりづらい。上級生から見たら、3次元世界に転生したばかりの新入生は未熟でわがままでトンチンカンで当たり前。できるだけ大目に見てあげましょう。今6年生の人も、1年生の頃はさんざん上級生に面倒かけまくって世話になっているからね。まあ、過去世でのことだから、大抵の人は覚えてないけど。でも、1年生には1年生の課題、6年生には6年生の課題があるから、ずっと下級生につきあって世話する必要はないし、間違ってるときは間違ってる言っていい。
Shima * Life * 19:53 * - * - * pookmark
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