ニセモノの愛

この間、電話で仲良しの魔女友とこんな話をした。
魔女友「日本人のいう愛と、欧米人のいうLoveって意味が違うと思うの。日本人がいう愛って、ほとんど依存だよね。」
shima「確かに。何かをしてやったり、してもらったりすることが愛だと思ってるよね。それは愛じゃなくて、取引だっつーの。全然、無条件じゃないもんね。」
魔女友「欧米人は何もできない子供にも「愛してるよ」って言うけど、日本人は「愛してる」って言葉を使い始めるのが恋愛するようになってからじゃん。」
shima「そうだね。それで愛の意味が愛欲みたいなものにつながりやすいのかもね。」

他者に対して何かをしてやることが愛だと思っている人は、他者に何かすることで自分の愛を示そうとするし、他者が自分に何をしてくれるかで相手の自分に対する愛を量る。

「私はこんなに子供のためにいろいろしてやっているのに、あの子はちっとも言うことを聞かない」と文句を言う母親。「私は彼にこんなに尽くしているのに、彼は何もしてくれない」と嘆く女。こういう人たちは、愛という名の下、何かをしてやる代わりに、相手に自分が求めることをさせようとする。依存とコントロールは表裏一体。でも、ソレは、ホントウの愛ではナイですヨ〜★

何かをしてやって、代わりに何かを得る、それは取引であって、愛ではない。本当の愛はまったく無条件なのだから、代償を求めるのは愛ではない。条件付のニセモノの愛だ。自分がこんなにしてやったのに、相手が自分の望むものを返してくれないと嘆くのは、勝手に自分で取引をしかけて、相手が返さないからと文句を言っているのに他ならない。相手に何かを望むのは、取引をしている証拠。無条件に相手を愛しているなら、相手のありようがどうであろうと、何をしようと、何をしまいと愛する気持ちは変わらないはずだ。相手に対して文句を並べ立てているのは、相手に対して条件付のニセモノの愛しか持っていないからだ。もともと日本人は恋人を探すときに「こんな条件に合う人」といって、最初から条件付でスタートする場合が多い。その相手と無条件の愛を育むなんてことは土台無理なのかもしれない。条件のある愛は、条件に当てはまらなくなれば、消え去ってしまう。だから、互いに相手の求める条件を満たせるように、努力を続けなければならなくなる。

「愛される価値のある人間になりたい」と自分の価値を高める為、学歴や地位やお金や美貌を手に入れることに奔走する人は多い。しかし、無条件の愛の下では、そんなことはまったく関係ない。大統領だろうと、絶世の美女だろうと、乞食だろうと、天才だろうと、おバカさんだろうと、同じように愛すべき存在なのだ。

人は愛の渇きにあえぎ、何とかそれを満たしたいと思う。しかし、間違った方法では、本当の愛は手に入らない。「愛される価値を手に入れたい」という欲の幻に振り回されて、人生を浪費してしまう。
Shima * 依存 * 18:47 * - * - * pookmark

共依存の檻

テレフォンカードが出たばかりの頃、大学の教授がこんなことを言った。「テレフォンカードなんていうものはない方が良い。長電話されて迷惑なだけだ。」当時はまだ携帯電話もインターネットもなかった。横浜で下宿生活をしていた私は、佐渡島の実家の両親と連絡をとるのにもっぱら公衆電話を利用していた。テレフォンカードができるまでは、百円玉・五十円玉・十円玉をいっぱい集めて電話しなければならなかった。電話が途中で切れないよう硬貨をどんどん入れないといけないし、お金の落ちる音がチャリンチャリンとうるさい。テレフォンカードができてどんなに便利になったことか。また別のときには「電車のホームのアナウンスがうるさい。毎日毎日同じことを繰り返し言う必要はないだろう。やめてしまえばいいのに。」と言っていた。しかし、今日初めて電車に乗る子供がいるかもしれない。目が見えなくてアナウンスを聞かなければ電車の接近を知ることができない人がいるかもしれない。

自分と違うバックグラウンドを持つ人がいて、まったく違う感じ方・見方・考え方を持っているという想像力が働かないというのは、その人が狭い世界に住んでいることを意味する。いつも自分と同じような価値観を持つ人とばかりつきあっているということだ。世界を広げるには、自分とはまったく違うグループに属する人と話をしてみることだ。自分と違う職種・宗教・世代・性別・国・趣味・・・・、自分と違う価値観を否定するのではなく、世界を自分と違う角度から眺める人がどのように感じるかを理解すること。それがどれだけできるかで、人の器の大きさが変わる。

人は共依存的であればあるほど、自分と違う価値観を持つ人とはつきあわなくなる。共依存者は、他者の評価によって自分の存在価値を確認するから、相手には自分と同じ価値観を持っていて欲しいのだ。自分が良いという価値観に基づいて行ったことを、相手が良いと評価してくれなければ、自分の努力が無駄になってしまう。だから、できるだけ自分と同じ価値観を持ち、自分に良い評価をつけてくれる人ばかりで周囲を固めようとする。しかもそれは無意識レベルで行われる。

共依存者は、自分の子供や配偶者・恋人・友人を持ち駒のように扱い、人との付き合いにまで口を出す。自分の目の届かないところで、違う価値観を植えつけられては都合が悪い。だから、新しい友達や知り合いができたと聞けば「家に連れてらっしゃい」だの「一緒に遊びに行きましょう」だのと言って、チェックする機会を作る。何かにつけて家族やパートナーがしゃしゃり出てくる家は共依存体質の場合が多い。それで「あんな人とつきあってはいけない」だの、「あの人は良い人だから、見習いなさい」だの、自分の判断を押し付ける。しかし、人と人との出会いは大いなる宇宙の意志によって計画され実現するもの。地上の一般的な価値観で計れるものではない。「悪い友達」と言われるような人であっても、多くの気付きと学びの機会を提供してくれるならば、魂的にはすばらしい友達と言えるかもしれない。

共依存者は子供やパートナーや友人が自分の目の届く範囲から出ないように手をつかんで、自分が了承した道しか行かせない。たまに手から離れて冒険して転んだら、「それ見たことか、私の言うことを聞かないからだ」とののしり、さらにがっちり手をつかむ。そうして小さな世界に閉じ込めてしまう。同じ価値観を持つ狭い人間関係の中で、ぐるぐる回り続ける共依存グループを作り、メンバーを外に出さない。安全という名の下に、不健全な檻(おり)を作る。その中は、限られた成長と進化しか望めない変化の少ない世界。

子供やパートナー・友人に対して本当の愛を持っているなら、好きなようにさせてやる。束縛しない。執着しない。自分の行きたい道を行かせてやる。「自分の人生は100%自分で決める」という人生の基本をおろそかにしない。自分の目の届かないところに行っても放っておく。それで転んでケガをして助けを呼んだら、助けてやれば良い。助け起こして、またひとりで歩いて行けるよう励ましてやる。人は、違う価値観を持つ人たちとの触れ合いの中で、新しい視点を得たり、いろいろなことに気付いて成長し、世界を広げていく。

どこにでもべったりついていく親やパートナー・友は、生霊が憑いているのと同じ。そんなことをしないように、させないように。
Shima * 依存 * 18:58 * comments(1) * - * pookmark

条件付の愛

日本では、頼ったり、頼られたり、何かをしてあげたり、してもらったり、依存したり、依存されたりすることが愛情と思われていることが多い。相手に褒められるようなことをすることで、愛情をもらえるというすりこみが幼児期に定着してしまっている。

7歳くらいまでの子供は、非常に暗示が入りやすい脳の状態になっている。特に母親の言葉というのは絶対的な力を持つ。幼児期に母親が子供にかけた言葉は、呪縛となって大人になってもなかなか外せない。
「ママは、○○する子が好きよ」
「ママは、××しない子は嫌いよ」
どこの母親でも言いそうな言葉だが、自分の子として愛するか、愛さないかに常に条件がつけられている。そんな言葉を聞きながら育ったら、子供は愛情というのは条件がついていて当り前と思う。無条件の愛など絵空事にしか思えないだろう。
「そんなことする子は、うちの子じゃありません!」
「言うこときかないなら、オヤツは抜きよ」
この時、無力な子供にとって、愛されないということは、生存の危機を意味する。ひとりでは生きていかれない子供にとって、愛される自分になること=生存して良いという価値を認めてもらえることになる。他者に価値を認めてもらうことによってサバイバルしていく体制が出来上がってしまう。

欧米に比べ、日本人は抱きしめたりキスしたりという愛情表現をあまり行わない。日本の子供はどんな時に抱きしめてもらえるだろう?泣いている時、具合の悪い時、眠い時など、特別な状態にあるときだけではないか。 何もない普段の時でも、無条件に受け入れて愛してもらえるという感覚を得るのは難しいかもしれない。「自分は何もしなくてもただ在るだけで愛される」という感覚はなかなか育たないかもしれない。

愛情は条件を満たした時にだけ与えられるというすりこみを持って生きていたら、ただぼーっとして暮らすわけにいかなくなる。他者の望む条件を満たす行動をし続けなければ、自分には愛される価値がなくなってしまう、しいては生存価値がなくなってしまうという危機感にさいなまれる。

子供の頃、具合が悪い時にしか抱きしめたり、心配したり、やさしくしたりしてもらえなかったとしたら、常に体に病気を作り出す人に育たないとも限らない。一生懸命勉強した時にしか褒めてもらえなかった子供は、仕事中毒になって突然死するまでストップできないような人に育つかもしれない。

子育てをする母親にこういうことを気付かせてくれる場は今のところあまりない。みんな、自分がされたように子供を教育する。しかし、昔ながらのやり方を変えなければいけない時期が来ている。
Shima * 依存 * 11:15 * comments(0) * - * pookmark

うお座の時代の呪縛

映画館の予告で「人類の存続をかけた戦いが今始まる」とかいうフレーズを聞いたが、これは正しくない。みずがめ座の時代に入った今ふさわしい言い回しは「人類の存続をかけた平和が今始まる」だ。守護からのメッセージによると、うお座の時代に作られたあらゆるものは、みずがめ座の時代に即したやり方にアレンジし、作りなおさなければならないという。ヒーリング手法や教育・宗教もしかり。うお座の時代のものは、平和や愛・楽しむことをベースにデザインされていないから今のエネルギーの流れに合わないのだ。過去の伝統あるものを全部ぶち壊して捨て去れと言っているのではない。今の時代に合わなくなっている枝葉の部分を取り去った時にこそ、根底にある不変なる真理が見えてくるという。時代を超えて受け継がれるべき宝だけをしっかり見極めろということだ。

古いうお座の時代に徹底的に洗脳を受け、催眠術をかけられたまま生きている人たちがまだまだいっぱいいる。共依存的な社会・教育・家族の中で、「誰かの為に生きる」ように仕込まれ、自分の感覚よりも、他者の感覚や世間を大事にして生きている。重症になると、そうなっていることにさえ気付かない。そういう人たちは、新しい時代になっても、昔からのやり方をやめることができない。「戦って人に勝て!」と仕込まれて兵隊のようになっている人は、敵のいない平和で安楽な生活を物足りないと感じる。「苦しい修行に耐えてがんばるのが偉い」といわれ続けた人は、苦しくないと生きている感じがしない。「家族の為に生きろ」と躾けられてきた人は、自分の為に生きて良いと言われても何をしたらよいか思いつかない。とはいうものの、旧時代のやり方を続けても「何か心が満たされない」と感じている。漠然とした不安感や空虚感、寂しさがいつも心の奥底に巣食っている。

うお座の時代の呪縛を解くことが、新時代のセラピストにとって急務であろう。ありのままの自分に還り、自分の為の人生を楽しく生きるみずがめ座の時代。私たちは自分の中に入り込んで定着している異質なものを見分け、日々手放していかなければならない。


◎ 以下、役に立ちそうな本を記す。
『インナーマザー −私を責めつづけるこころの中の「お母さん」』斉藤 学 新講社
『「自分のために生きていける」ということ』斉藤 学 大和書房
『アミ 小さな宇宙人』エンリケ・バリオス 徳間書店
『魔法の学校』エンリケ・バリオス 徳間書店


みずがめ座の時代
Shima * 依存 * 20:29 * comments(0) * - * pookmark

師を手放す

すばらしい師に従い、その人のやり方を見て学ぶことが必要な時期もある。しかし、それはヨチヨチ歩きの頃にすることだ。ある程度のレベルに来て、本当に源への道を歩こうと決めたのなら、誰にも頼らず、誰の価値観も取り入れず、誰の判断にも頼らず、誰の視点も取り入れず、自分自身の心と魂の指し示す感覚だけを信じて歩いていくべきだ。レイキサードまでやって、高次へとつながる技を手に入れたのに、宇宙の真理・叡智を得んと欲する時に、師に問うて済ませてしまおうとするのはあまりにお粗末。源とは、悟りとは、真理とは、外に探すべきものでなく、自分の中にあるものだ。自分の奥へ奥へと進まなければ見つけられないものを、他人に教えてもらおうとするのはどうかしている。最もすばらしい師は自分自身であると知れ。

源を語ることは、りんごを見たことも食べたことのない人にどんなものか教えようとするのに似ている。りんごは赤いという人、青いという人、固いという人、柔らかいという人、酸っぱいという人、甘いという人・・・食べたことのある人に聞いても、言うことがみんな違うように感じられるかもしれない。しかし、実際に手にとって齧ってみたら「ああ、その通りだ!みんなが言うことは全部本当だった。」と思うに違いない。 りんごを見つけるに先立って、誰かの物の見方・考え方を知らず知らずのうちに取り込んでしまうのはとても危険なことだ。崇拝する師が「私が食べたりんごは赤かった」と言ったのが頭に入っていると、無意識に目は赤いものを探してしまう。そして赤くないりんごが目の前にぶらさがっているのに気がつかないというようなハメに陥る。あおいりんごの話をしている人がいれば、そんなのは偽物だと思ってしまう。
Shima * 依存 * 22:55 * comments(0) * - * pookmark
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