言葉のブロック

 守護によると、言葉というのは地上界の智恵のピースで、イメージとしてはオモチャのブロックのようなものなのだそうだ。それぞれのブロックには形と色(意味)があって、我々はそれを組み合わせて使っている。

 

 段階2の人は「私はブロックで何でも作れる。私は万能な創造主だ!」という。しかし、表現は自分本位で稚拙で、しばしば他者からは理解されない。

 

 段階3の人はブロックですばらしい作品を創る人を崇拝し、あがめたてまつる。達人から正しい方法を指導してもらってブロックを組む。

 

 段階4に来ると、いくつかの「ブロックの組み方マニュアル」を応用して、自分の作りたいものを作れるようになる。たくさんブロックを集めたり、ブロックを上手に組み上げる技術を研鑽するが、しょせん地上界の既存のブロックを組み合わせているだけだということに気づいていない。

 

 段階5に入ってくると、天から雷のように己の中にひらめいたリアルな何かをなんとかブロックで表現できないかと格闘しはじめる。ブロックというオモチャを使うかぎり、いびつなものしか創れないという限界に気づいている。よりリアルな表現を求め、新しいブロックを創作したりもする。

 

 言葉を用いた思考だけでは、オモチャの世界の檻に閉じ込められてしまう。地上界にまだ下ろされていない叡智を追い求める者は、言葉のない世界に足を踏み入れていくことになる。まだ言葉を与えられていないもの、ブロックとして形をとっていないもの、そういうものが自分の中に存在していることを意識し、スペースを与えること。無であり空である混沌から生まれ出てくるものに形を与えるクリエーションに参加する。

Shima * コミュニケーション * 09:23 * - * - * pookmark

ハートの言葉

先日、潜在意識にアプローチする某セミナーに参加した。内容の完成度も低かったけど、とにかく講師に対する嫌悪感が強くてしょうがない。何でだろうと考えたら、声が嫌いだったんだよね。

アタマで話す人は、声がキンキンしていて、冷たい感じがする。
ハートで話す人は、声が穏やかで、温かみがある。

自分に自信がない人は、本当の自分を他人に知られたくない。だから、言葉に厚化粧をしてごまかす。アタマで話すとはそういうことだ。相手が気に入るであろう言葉を一生懸命考えて、美辞麗句を並べたて、気を使って話す。しかし、無意識レベルでの目的が、相手に受け入れてもらうことや、良い評価を得ることなので、押し付けがましいニュアンスがどうしてもぬぐいきれない。アタマで話した言葉は、相手のアタマに響くから「アタマに来る」の言葉通り、相手が拒否反応を起こすこともある。

ハートで話す人は、ただ相手の向上を願う。相手が自分をどう思うかはどうでも良いこと。小細工することなく、飾らない言葉で素直に自然に話す。相手が気に入る言葉ではなく、相手がわかりやすい言葉を使う。ハートで話した言葉は、相手のハートに響く。ほんの一言で人生を変えるくらいパンチ力が強い。
Shima * コミュニケーション * 06:46 * - * - * pookmark

ベビーサイン

先月、大学のスクーリングで脳科学の授業を受けた。その中でベビ−サインでコミュニケーションする親子の動画を観た。11ヶ月〜2歳の赤ちゃんは、まだうまくしゃべることができないが、身振り・・・というか手話に近いベビーサインを使ってかなりコミュニケーションできる。「音楽をかけて欲しい」など、手を使ってはっきりと意図を持って、親にサインを出していた。親の方は子供が何を伝えんとしているかをしっかりと観察し、受け止める。「ゴハン」を表す手の動きの後に、手を振って「バイバイ」で、「もうお腹いっぱいだからゴハンは要らない」と伝える。「虫」を表す手の動きの後に、「探す」しぐさで、「虫はどこへ行ったんだろう?」と伝える。

その動画の解説の中で言われていたが、大事なのは、親から子へ一方通行の愛ではなく、親子相互のコミュニケーションなのだそうだ。親が自分が良いと思っているものをただ押し付けるだけではダメなのだ。子供が何を欲しているかちゃんと汲みとってやることが大事。これが人生最初のコミュニケーションなのだから。人とのコミュニケーションはここを土台にして作られていく。

親からすべてを一方的に押し付けられ、自分の思いなどまったく伝わらない、受け止めてもらえないと思ったら、無力感を抱くだろう。
自分が発したサインで、思いがちゃんと伝わり、周囲の環境を変えられると知ったら、自信が持てるだろう。

愛着(アタッチメント)の形成には応答的な対応が重要であるとされる。この応答的対応というのは、養育者との間にコミュニケーションが成立するということなのだ。子育てマニュアル本や偉い学者先生の言った通りのことをただ一方的にやって「私って良い親だわ」と満足していては、子供とのコミュニケーションは成り立たない。実際の子供の反応を見て答えてやることが大切だ。世間様からいくら良い母と認められても、子からみて良い母でなければ意味がない。

言葉のキャッチボールが成立しない人がいる。一方的に自分のことばかりしゃべって相手の言うことを聞かない。あるいは逆に、相手にしゃべらせるばかりで、言葉を投げかけられてもきちんと返せない。そういう人たちは、幼児の頃、親との間でキャッチボールができなかったのかもしれない。
Shima * コミュニケーション * 16:16 * - * - * pookmark

ディベート

むかし、日米会話学院の夜間部School of Intercurlural Communicationsに通って、米国式コミュニケーションの手法を学ぶ機会に恵まれた。授業は3時間×週5日、全部英語で行われ、しばらくすると英語で夢を見るようになるくらい叩き込まれる。クラスメイトはほとんどが一流企業の社員で、会社のお金で勉強に来ている人ばかり。学生は3人位しかいなかった。「英語で会話ができるようになること」ではなく「コミュニケーションツールとして英語を使いこなすこと」が目的なので、相手を上手に説得する方法、アイコンタクトの重要性、ブレーンストーミングなどなど、「アメリカ人はこんなトレーニングを受けているのか!」と驚くようなこともたくさん習った。

その中でディベートの授業がなかなか面白かった。ある議題に対して賛成派・反対派の2つの立場に分かれ、それぞれの論点を分析・検証し、論証を行うもの。ここで重要なのは、必ずしも本当に反対していなくても、違う角度から検討する為にあえてボランティアで反対してみる役目をかってでる人がいるということ。反対の立場からも検討することで、賛成派の意見に穴がないかチェックすることができるし、論点を明確に抉り出し、ゆらがない裏打ちをすることができる。同じ考えの人ばかりだと偏った意見になってしまうが、反対の立場からも検討して意見を取り入れることでバランスをとることができる。

日本で議論が行われる際は、あえて反対の立場からものを言ってみるというディベート的な試みをする人はいない。反対の意見を言う人は、敵と見なされる。「反対意見を言う人は、自分を嫌いなんだ」とまで思ってしまう。意見は意見、人は人と、ちゃんと分けて考えられる人が少ない。反対意見を唱える人は敵視されて排除されるし、結果的に「本当は違うと思っているけど言えない」ということがしばしば起こる。最近のニュースを見ていると、そうやってどんどん意見が偏った方向に進んでいって、最終的には立ち行かなくなってバッタリ倒れてしまうことが、政治でも会社でも現実に起こっていると思う。バランスをとってくれる反対意見を言ってくれる人を大事にするべきだ。「NOと言えない日本人」という言葉があるが、「反対意見を呈示する人=自分を嫌いな人・自分の敵」という図式を手放せない限り、健全な意見交換は難しくなってしまう。好意を持っている人でも「この点に関しては君と意見が違う」なんてことはざらにある。「意見が合わない=嫌い」はおかしい。みんなが同じ感じ方・考え方なんていうことはありえないのだから。せっかく人が集まってそれぞれの意見を聞く機会ができたのならば、あらゆる角度から見てもらうのは大事なこと。他の人の意見を聞く耳をもたないのなら、ひとりでさっさと決めれば良い。何かまずいことが起こった時に自分だけの責任にならないように「みんなで検討した結果」にしようとするのは、あまりにもひどい。
Shima * コミュニケーション * 11:17 * comments(0) * - * pookmark
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